【頭ひとつ抜けて面白いホラー映画】
①『リング』
②『螺旋』
③『回路』
④『残穢』
⑤『エクソシスト3』
⑥『CURE』
⑦『オーディション』
⑧『呪怨』
⑨『ブレアウィッチプロジェクト』
⑩『仄暗い水の底から』
⑪『輪廻』
→怖さのレベルが違い過ぎて、映画として面白いから何度も見たいのに、肉体的反応が起きてどっと疲れてしまうせいで、あまり繰り返し見れない。
たとえば、コンビニから家に帰ってくるとさっき置いてあったものの位置が微妙にズレていることに気づくとする。そういう映像を製作することに、おそらくほとんどお金はかからないし特殊メイクも不要だが、実際にあったらものすごく怖いと思う。閉めたはずのドアが開いているだけでもかなり怖いのではないか。私はカネのかからない恐怖のほうが興味深いと思う。
正直、バッと突然迫ってくるやつとか外見が異常なやつよりも、鑑賞後にじわじわと自分の部屋の中の、暗闇とか、鏡とか、壁のシミとか、押入れの隙間とかが怖くなってくるやつが一番怖いと思う。
大きな音が怖いとか、高いところが怖いとか、刃物が怖いとか、人体破壊のグロが怖いとかっていうのは、生物なんだから持っていてあたりまえの合理的な恐怖で、それに対して、自分たち人間の理屈とは全然違う理屈で動いている生物と目があってしまったときに、急にこちら側(=人間的な理屈)がおかしいような気がしてくる感覚があって、そっちは非合理な恐怖だと思う。これまで依拠してきた、人間たちがみんなそれを信じて暮らしている理論の土台はそれほど確かなものではなく、実際にはその土台でなくてもよかったということを感じ取ってしまうことがあると思う。
自分が正しくて相手が異常だと感じる怖さ(=合理的恐怖)よりも、自分の正しさが根本的に怪しくなってくる怖さ(=非合理的恐怖)というのがあると思う。家の慣れ親しんだものどもが、急激に怪しく見えてくるような怖さである。
そして、そういう感情のきっかけとなるような根本的に他なるものを、画面の中に呼び込んでしまっている映画というのは、良い映画だと思う。
というか、この非合理的恐怖(=あるいは別の言葉でいえば「畏怖」)の感情を掻き立てるために、幽霊とかモンスターなんかを映画に出す必要は本当はなくて、普通に他人を出すだけでも論理的には十分なんだけど、他人をそういうふうに撮るのはものすごく難しい。どうしても作者と観客の双方にとって理解できるもの(=合理的なもの)として他人を描きたくなってしまうから。
つまり、一方で相手側を異常者として描きつつも、それなのに他方で、その相手側と怖がるこちら側とのあいだに「たとえば何が怖いか」についての共通前提についての了解はあることにしてしまうのだ。これがホラー映画に固有のジレンマである。つまり、こちら側の怖さを投影して、それに象ってしか、怖いあちら側を描けない。だから、ホラーは難しいのだと思う。
このジレンマに関して、唯一効果的な手法があるとしたら、恐怖するこちら側の人間たちの顔ばかりを映すことだと思う。あちら側は映せないので、こちら側をひたすら映すのだ。自分の依って立つところが根本から崩れてしまった人間の絶望の顔を映せば、その絶望した人間が見てしまったのであろうものへの畏怖が、観客にも伝わるかもしれないからである。