カラン

上海から来た女のカランのレビュー・感想・評価

上海から来た女(1947年製作の映画)
4.5
ザ・フィルムノワールとも言うべき、オーソン・ウェルズがハリウッドで5番目に監督した映画。彼は演劇とラジオでの活躍によって、満を持してハリウッドに招かれたが、第1作の『市民ケーン』(1941)からいきなりメディア批判をぶち上げて以来、ひたすら冷遇され続けたので、カット権もなければ、予算もなく、現在の評価と見合わないキャリアを送ることになった。

演劇の役者業で身につけたものなのか、動きは小さいが、顔面の表情はとても豊かで、目をぎょろぎょろさせる。その彼が監督、脚本、製作を務めているのだが、さらにファムファタールには、本作の公開を前に離婚することになった妻であり、超高給取りのスーパースターであったリタ・ヘイワースを据えた。その赤く染めたロングヘアで一世を風靡していたコロンビアピクチャーズの天使の髪を、オーソン・ウェルズは切らせる。しかし、妻の髪のカット権を行使するも、ロングショットを中心にしてドキュメンタリー的な効果を持つ映画をハリウッドに初めてもたらすという彼の目論見は、ラフカットの時点で潰える。

ウェルズの計画とは反対に、クロースアップが足りないので、再撮影を命じられることになり、その後の編集ではウェルズのラフカットから1時間分ほど、切られることにもなったのであった。初公開はフランスで、アメリカは先送りになった。無論、興行は悲惨なものであった。


面白いのは、ここからである。


この種の検閲と現場介入は悲惨な結果を招くのは歴史的に実証されており、本作の興収もそれを証明しているように見える。しかし、監督の企図が邪魔された失敗作のはずのこの映画に対して、実際に、捨てる神になるのは、映画を観る目がないから、というだけである。

冒頭、アイルランドの金のない水夫の男が、馬車の中のファムファタールとカットバックになる。女は馬車の内張りまで自らの輝に変えるオーラを発散しながら、怯えているのか、本心はうかがいしれない。カットバックでクロースアップになる男は宇宙的漆黒の闇を背景にして、がーんと驚いた表情である。カットバックであるが、宇宙のオーソン・ウェルズの方は、おそらく上で触れた強制的再撮影のクロースアップなのだろう、コンティニュイティがぶった切られた挿入のようになっている。ショットの連続性を頭のなかで再現できない捨てる神の目には、オーソン・ウェルズの俺俺ショットに見えてしまうのかもしれないが、そうではない。ここでのクロースアップはクロースアップであるが、馬車の中の追い詰められた女と謎の驚愕に捉えられた男の、それぞれの顔のショットではないのである。馬車の内張りと宇宙の漆黒のコントラストのための、検閲をすり抜けるロングショットなのである。

水族館で密会する2人のシーンも、顔と見せかけて、タコだの、海亀だの、拡大された恐竜のようなウツボやエキゾチックなサメなのである。

或いは、崖淵で偽装殺人を持ちかけてきた、ロバート・アルドルッチの映画に出てきそうな油っぽくて悪そうな爺さんのアップに接続するのは岬の崖のはるか下の海面なのである。ロングショットに繋がるクロースアップである。

ウェルズの企図と映画会社の検閲を場合分けするのは困難であるし、そうする必要はさしてないと感じさせるのは、強制された再撮影が映画空間を強化するクロースアップだからであり、それが元々ウェルズが企図したカルフォルニアやアカプルコでの海上ロケと響きあうことで、ジャック・ターナーの『私はゾンビと歩いた!』(1943)のカリブ海や、ましてや溝口健二の『雨月物語』(1953)の仮想・琵琶湖などとは比較にならないほどに、エキゾチックでミステリアスな効果をあげるからである。

そしてまた、ウェルズや悪徳オヤジどもとの対比を通して基本的に光を纏うことになるリタ・ヘイワースのクールな魅力がいっそうに高まるのである。有名なラストシーンも、強制された各種クロースアップによってさらに効果的になっているのではないだろうか。


レンタルDVD。55円宅配GEO、20分の3。
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