井出

上海から来た女の井出のネタバレレビュー・内容・結末

上海から来た女(1947年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

この映画を見てると、大きな違和感を覚える。それは、映画自体にではなく、自分自身に。作家主義が現れて以降、私たちは作家主義的な見方をするのが当然だったし、というか、作家主義者が評価するような作品しか残されず、また作られなかった。だから、ウェルズが想定している観客と我々は違くて、それが違和感を覚えさせていると思う。
では、どう違うか。おそらく当時の観客は、作品のなかの裁判の傍聴席の人らと同じように、スキャンダラスでドラマチックな展開に息をのみ、あれはあーだ、これはこーだと言いながら映画を見たに違いない。カメラは誰かの主観で使われたり、ことを傍観で眺めたりしているし、見る者を視覚効果で、本気で困惑させようとかかってくる。回転するセットや、最後の鏡も、私たちはさも冷静に見て、あのシーンは良かったと内省し、レビューに書いたりするだけだが、当時の観客は、小説や舞台ではなく、サーカスを見るように、客観視した文章の世界を経ることなく感動していたのだろう。作り方から、当時の観客を察せられるとは思わなかった。やはり映画も表象文化なんだな。
クラシック音楽を聴くときも、演劇を見にいくときも、最初はきっと、観客はうるさかっただろう。庶民でもお金を払えば見れるようになって、対価に見合うものを貪欲に求めた結果、静かにしろと注意する人が増え、批評家気取りで(批評家もふくめ)作品のことを知的ぶって評価するようになって、作家主義が浸透していく。「芸術」っていうのはそういう運命にあるのかもしれない。感性ではなく、文章的で理性の世界で見るのは、おれは楽しいけど、失われたものを認知すると、そっちもいいなとか思う。
井出

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