ニューランド

忘れられた人々のニューランドのレビュー・感想・評価

忘れられた人々(1950年製作の映画)
4.5
☑️🔸『忘れられた人々』(4.5p) 及び🔸『スサーナ』(3.1p)◀️▶️

『忘れ~』はやはり半世紀前の時点·また今でも、ブニュエルの代名詞的作品で、何も知らずに初めて観た彼の作品で10代半ばに達するかの年だった。二十歳前にもう一度診たのが最後で、共に16ミリ版だったろうか。その時も、今回の40数年ぶりの再見でも思うのは、シュールリアリズムや反カソリック·ブルジョアの、先鋭的な作品というより、細部まで良心や力のこもった、万人とを結ぶ、所謂真の名作だと言うことだ。政治·信仰·解放といったテーマに偏ることのない、当時、というかその時点のひと昔前、真っ当な観方が主流だった時代持上げられてた、真の名作『自転車~』『~ポチョムキン』『天井桟敷~』の系列に収まれる(実質それらを超える)作と言うことだ。
 事実、ここでの(取分け)鶏·鳩·生肉·犬·ヤギや、牛乳·ナイフ、盲やいざりといった象徴的かつ機能的オブジェの艶かしさや、画調のコントラストを変え、スロー使用や主観性強調の夢や断末魔のシュールなイメージは、作家の他のどの作品より、力がこもっている。デクパージュも、作家主義的·思い上がったものではなく、一般映画の分かりやすく伝わる直催で外しのないものになっている。対峙切返しや寄り·どんでん·L·俯瞰め·ロー·執拗行為切出し、細めに寄るやフォロー、取り分け様々窓越しの半ば汚れた象徴的図(覗く主体が動物も)、全てに意気と思いがこもってる。
この先の作らでの、自らの複合的性格·性質からの煩悶の作家主義的主観性は、本作では二の次で、無心に映画を作り、世界をその侭に·曲げず、張りだたせようとしている。貧しさが深いすべての原因で、少年鑑別所の責任者は、そこでもはみ出た少年に、おつかいを任せ、金を預けて院から出させて、かれの良心を(可能性少なくても無いわけでもない以上)試すを、繰り返す。何の自覚もない、少年らの暴力や夢想は、行為者·被害者共にインパクトとカット割りが剥き出しの卑劣さに昇華させてくる。トゥショットだが、盲と鶏の不思議な見合い等、その要素を集約している。
このメキシコの首都での、少年院から脱走·舞い戻り年長者と、父に置いてかれた·より年少の部外者の少年。そして、ドラマ的な悲惨が重なるのは、舞い戻り年長に過剰復讐殺人の共犯と脅され、その後も、得られない母の愛·少年院院長の信頼に応えようと、懸命に働き始めたり·預かり金を護ろうとするが、度に舞い戻り年長に足を引っ張られ、あげくに殺される少年。取り残され少年と同じ年頃で仲もよくなる、取分け普通の·全てにやや飢え·意気がった少年である。これら、生来家族のないか、見捨てられた3人の少年の係わる、3組の家族と、盲だが大道芸や家庭回り特殊マッサージで、社会にかなり入り込んで、残された少年を·手足として使う為に引き取ったりもする老人。舞い戻り年長に復讐の為に殺された青年の酔っぱらいの父、他の弟妹には母を努めるも·何故か少年には欠片の理解も示さない母が中心の家、その隣家は病身の母·半不良の兄·他祖父や弟らを切り盛りする·色気付いてる納屋で牛の乳搾り娘が中心で·3人に成長も絡めた親交も恐れ知らずにある。元よりの家族は護られ、部外者的少年らは結局は死者として等弾き出される(置いてかれ少年は、乳搾り娘と話し合ってやはり父捜しへ出ていくが、母恋し少年の遺体は、乳搾り娘と祖父がネコ車で暗いうちにごみ捨て場に祖父らと捨てられる)。映像もだが、この人の絡みの不可逆な絶対の、独自も普遍の力のあり方が凄い。運命などなま易しい、運動力とでもいうか。
映画を究めた作というか、作者の資質を超えた、造型·表情マスク·運と貧しさ、の普通の映画を掴み切った作で、ずっと一般的には、ブニュエルの最高の作と、今も昔 も恣意なく、言われ続けらるのだろう。異論はないというか、映画好き·そうでもない誰と話しても、そこに落ち着くのだろう。
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 続く『スサーナ』は、やはりキレや鋭さを欠いた作品として、評価は高くは取れないが、一方底意地の悪さをもってながら、一般の観客の意識をかき混ぜながら、しっくり落ち着く所に落ち着かす安定感は、期待される創り手の役を充分に果たしてる。そして、表向きの定番の底を貫くより切実なものの貫き、純度·暴力性が、深く感じられもする。
 寄るや横へのおっとりめ移動、嵐や雷や土砂降り無慈悲効果、予感の単語や影の線形·動物·緊張表情の宗教的暗示、後半のキッチリ暴力を秘めた切返し纏まりや速いパン、らあるも基本寄りカットは散発単発的で、室内·屋外·自然·セットに拘らず退きの図·やや長め侭の人の配置とその空気それぞれの干渉がもたらす確かさと根っこが本作の力となっている。何かにおもねっての造型で、才気独自性迄のは表れぬが、作家の力量を証明する。
 名うての在籍長い不良で感化院を脱走した少女は、暴力の被害者として出を偽り、ある農園に救われ、保護を求め、その有能で奥様の右の腕と信用を得て、隠れた本意の恋の安定と反対の純粋へも向かい、牧童頭·帰省中の学生坊っちゃん·中年農場主当人と、相手のアプローチをより経済も地位も上位に舵を取ったのは、一方で、相手の自分本位の強引さから、それを抑えた支えや慈悲からの手差し伸べからの、妻の存在を押し退けて、愛を口走らざるを、の苦しさ·より純粋な噴き出る想いを求めていたせいか。使用人の老婆の言う「不吉、悪魔」の途を決められ、感化院の追手が追い付く、展開ながら。
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