河

情婦マノンの河のレビュー・感想・評価

情婦マノン(1948年製作の映画)
3.8
主人公であるロベールが戦争中、ドイツによる爆撃、占領によって荒廃した町でマノンという女性と出会う。マノンはドイツ兵と親しくしていたために町の人々、フランスに捕らえられそうになっている。ロベールはマノンを隠して助ける。マノンが隠されたのは崩壊した教会の告解室であり、母国であるフランスを騙して助けたロベールがマノンと会話する時、罪を告白しているような形となる。そして、その2人が結ばれる時、崩れたマリア像などがそれを見つめるように映される。それは教会での結婚式のように2人が結ばれたことを表すとともに、マノンを選んだことが罪でありその罪人を攻めるような視線でもあり、人を殺してきたロベール、そして戦争に対する視線でもあるようにも見える。そして、2人は灯りのない捨てられた家で初夜を迎える。

マノンはおそらく都会出身で、戦時中は排他的な町で物がない状態に生きてきている。そして、醜く意地悪くなるだけと言って投獄を恐れる。ロベールは田舎の出身であり、父のいる田舎での貧しいが落ち着いた生活を望む。ただし、マノンにとってその生活は牢獄と同じである。マノンが望むのは都会での着飾った生活であり、2人の望む場所は一致しない。

戦時中の田舎の町でマノンは排除され、ロベールは適合していたのに対して、戦後の都会での豪奢な生活にマノンは溶け込み、ロベールはその生活、交友関係を拒否する。

金を稼ぎマノンの生活を実現するため、ロベールは犯罪に手を染めるようになる。崩壊した教会での出会いにおいて示唆されていたように、マノンはロベールを罪に導くような存在となっている。しかし、戦後社会においてはマノンのような生き方の方がマジョリティであるように描かれる。

マノンは男に近づいて利用し、そして逃げていく存在であり、ロベールに近づいたのも逃げるために利用するためだったことが鏡に映った顔によって示されていた。マノンは米軍の男に近づくようになり、ロベールから逃げていく。ここで、米軍の男も同様にマノンによって物資の横流しという犯罪に導かれている。

そのマノンの上の存在、マノンを利用する存在としてマノンの兄がいる。ロベールがその兄を殺すことで、マノンの行動原理が大きく変わりロベールと今度は利用するためではなく結ばれるようになる。マノンの兄は映画館を運営しており、そこではカウボーイがロープで敵を倒す映画が放映されている。ロベールはロープでその兄を絞殺することで、マノンを支配から救うカウボーイのような存在となる。

そして、2人は船に潜り込み逃げる。船でロベールが人を殺したことがばれるが、2人の話を聞いた船長はそれを許すかのように2人を脱出させる。崩壊した教会での罪に向かうロベールへの攻めるような彫像たちの視線に対して、赦しを与えるような形になっている。

ここで、殺人を行うが罪とされない戦時中、犯罪そして殺人に向かう戦後、その赦しという形でロベールの話としても、2人が結ばれる話としても決着がつく。ただし、映画はここで終わらずに2人は同じく違法に船に乗っていたユダヤ人たちと共にイスラエルに辿り着く。

イスラエルにはユダヤ人とムスリムの対立があり、2人の出会う戦時中のフランスとドイツの対立の反復となっている。ただし、フランス側として追い出す側だった戦時中に対して、イスラエルではユダヤ人の同行者としてムスリムによって追い出される側へと変化している。そして、マノンはムスリムによってユダヤ人たちと共に殺される。

車が故障し、徒歩で向かう道中に湖沿いの自然に溢れた土地があり、マノンはそこを天国と呼びそこに暮らすことを望むが、ロベールは先に進もうとする。ここでも2人の望む場所は一致しない。そして、その先には牛の死骸のあるマノンが地獄みたいと言った土地がある。ロベールはマノンの死体を運びながらマノンが望んだその湖沿いを目指す。しかし、そこに向かうことを諦める。映画を通してロベールは自分ではなくマノンの望む場所で2人で暮らそうとしてきたが、ここでついにそれを手放すようになる。

そして、ロベールがマノンの死体を置く場所はマノンが地獄みたいと言った土地である。崩壊した教会でのロベールへの攻めるような彫像たちからの視線が、砂漠の植物によって反復される。ロベールはその植物をそれまでに会った周囲の人々として、マノンが裏切っていることを指摘してきた時のセリフを幻聴し、マノンの死体を地面に落とす。この時、マノンは目を開いた状態でただの死体として映される。

それに対して、ロベールは出会った教会でのマリア像のような形でマノンを土に埋める。ロベールにとっては自分の中にある自分を求める姿のマノンが見えている。それはマノンにとっては忌避してきた牢獄であり、そこでマノンは恐れていた醜い姿になっていくことになる。それはロベールにとっては他の男が寄り付いてこなくなるということである。

ロベールはマノンの望んだ場所ではなく自分の選んだ場所で、自分の望んだマノンの姿で、外部からの視線や干渉もない2人きりの状態になる。ロベールが遂に自分だけのものとしてマノンを手に入れたような形で終わる。

人々が決定的に罪を犯してしまったものとして戦争があり、戦後そのまま罪へと向かう人々に対して、その罪に向かうような性分を取り除こうとする、純粋な姿に戻そうとする。しかし、それは死によってしか実現されない、つまりそのような姿に戻ることはできない。そして、戦争は今後も反復され続けるというような、戦争以前への決定的な戻れなさを描いた映画のように感じる。そしてそれを象徴するのがあの崩壊した教会、そこにある崩壊した彫像からの視線のように思う。

モチーフの配置がめちゃくちゃにうまくて、脚本の映画だと感じた。映像的には、特にイスラエルでのシーンなど、ムルナウとフリッツラングを消化して映像に落とし込んだような感覚がある。この監督の映画、手際よく映像での語りが進む中で一気に時間感覚が遅くなる瞬間があって、それが良い。この映画だと電車の人混みの中マノンが移動していくシーン、その後の煙の中のセリフの聞こえない再会のショットのドラマティックさ、あとイスラエルに着いて以降、一度大きく動きがあってからのズルズルと続いていく死体を運ぶシーン、そしてクライマックスからのあのラストショットっていうこの2つの時間感覚の緩みからの展開が好きだった。
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