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ニッケルオデオンのotomisanのレビュー・感想・評価

ニッケルオデオン(1976年製作の映画)
4.0
 安かろう悪かろうとは、日本もかつて世界中から叩かれた悪口だが、今も大繁盛のアメリカ映画界も創世期のドタバタぶりは御多分に漏れず。まあこんなもんですよ、という塩梅で。それでも、みなさんニッケル貨を握りしめて駆けつけてくれるわけですよ。
 その「こんなもん」をこんな具合で作ってましたと、無茶連発の撮影を誰が役者で邪魔者(特許会社のスナイパーでバート。ダチョウのランドルフ)でというぐちゃぐちゃでも、暮らしが懸かれば何のそのと乗り越えてしまってたんですな。
 確かに、残ってるアクロバチックな映像が案外、現場も真っ青の大ハプニングで 撮っちゃったというか、結果撮れちゃったなんて、真に受けてしまいそうな。
 労災も労基署もない時代、警察もブン屋も稀な辺境のとんでもないところに今でも百年前の無名の映画屋の墓石が残っているかもしれない。淋しい荒野に埋めないで欲しかったろう、墓碑銘くらい華やかに刻んであげたいところ。だが、オニール親子の撮影隊は幸運120%。映画を地で行くアクロバットと取り違えの妙がぴったり嵌まって、素人監督と素人カウボーイの無手勝流的映画で盛り上がっていく。
 顧客運の悪いオニール弁護士だから三百代言より出任せ映画作りの方が性に合ってるらしいんだが、もともと馬鹿なきっかけでの転身。なんだか土地を求めたフロンティアが消滅して四半世紀、かわってビジネスにフロンティアが転身するような、新しい職に向かって身の軽さというか、根が移民の根無し草気質というのか。他人の離婚の尻押しよりもよっぽど面白いというところ。今でもこんなネタの物語は映画界にごろごろしてるだろう。
 そんな今と変わらぬ生臭に、初期映画業界特有の特許会社による大手寡占体質が生臭、焦げ臭さ、硝煙臭さの上乗せで弱者必滅を仕掛ける辺りが内幕物としても面白い。焼き討ち喰らってオニール隊は面白くないか。ついでに、オニール監督の監督となる経緯たるグリフィス雲隠れも、カネを握ってトンずらしてまんまとあの「國民の創生」を撮り上げたかと思うと可笑しくも生臭い。
 こんなグリフィス独り勝ちの胸クソがけんか別れの社長とオニール隊を調子よくも会同させてしまうが、生臭さ社長の夢の舞い上がりにほだされたか?オニール隊にも憑き物が付いたか?割れた磁石もグリフィスショックが締め付けるのか?口約束ひとつで結局元の鞘と駆け出す途上で見掛けた他人のそら似風景に、もう誰かが後追いやってるよと、オレらも釣られて飛んでくんだなと、馬鹿は飛ばなきゃただの馬鹿だと駆け出す始末にちょっぴり悲しくも夢淡く華やかに飾る上辺の、それでもあの気球を追っかけ、汽車に挑んで、ダチョウも乗りこなす日々の倍増しを期待してしまう。映画屋も馬鹿なら一観衆も馬鹿だなあ。

 たしかにあんな馬鹿ネタつぎはぎの10分だか20分に大笑いして明日なき日々に弾みをつける人たちもいたわけだ。同じころ、東海岸ではルイス・ハインが多くの年少労働者たちを写真に記録している。ハインに促されカメラと面する彼らの無関心気なまなざしを見ると、彼らもたまの休みにニッケル貨をもってほんのいっときただ笑って過ごしたかもしれないと思う。
 おなじくつぎはぎは後年、神父様の検閲でカットを食らった接吻コレクションとなって現代(当時)の映画屋の眼に活気を与える事になる。
 まったく、絵が動くだけの今じゃあたりまえが、とても貴重な目眩ましだったことに思い至る。そんな気晴らしから物語へ乗り出す画期に際して、ならば、ハインの子どもたちも文字に頼らない新しい物語の形式を受け止める心を映画とともに肥やしてゆくのだろうとふと思う。結構な事なのか由々しきことなのか、その人次第には違いないが。
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