イホウジン

サウンド・オブ・ミュージックのイホウジンのレビュー・感想・評価

4.3
抑圧からの抵抗/解放の装置としての文化。
正真正銘大人も子どもも楽しめる名作。

小学生の時にDVDで断片的に観て以来の約10年ぶりの鑑賞だったが、歳をとったり世界史を勉強したりして見え方が変わった。それでいてやはり子どもの時と同様に楽しんでいた事実が今作の普遍性の現れであろう。
言わずもがな劇中歌はどれも見事である。1曲でも名曲になれば万々歳なのに、今作の曲は何曲も後世に語り継がれ音楽の教科書にも掲載されるレベルである。この映画の曲の最大の特徴は「歌いやすさ」である。理由は当然それらの曲が家庭教師としてのマリアが子供たちのために歌ったからだが、この「歌いやすさ」と芸術性の両立を常に保ったミュージカル映画もそうないであろう。私が子供ながらあの長編映画を楽しんでいたのは、きっとこの名曲の数々に惹かれたからであろう。何回か聴けば頭から離れない。
ただ、今作を名作たらしめる要素が曲の完成度だけではないことは成長しないと気付かなかった。
まずなにより見事なのが、曲にその場面における明確な意味を与えている点である。歌が良い映画は他にもたくさんあるが、それらの歌はどこか映画のストーリーとは独立したものとして描かれがちだ。別に独立は悪いことではないが、どうしてもどこか映画の本筋から浮いてしまう面がある。ところが今作は、歌にその歌詞以上の意味を持たせることによって、ストーリーと歌唱の連携がとてもスムーズに行われている。だから歌唱が自然な流れのように思えるし、ストーリー的にも無理がない。
歌に歌詞以上の意味があると言われてすぐに連想したのが国歌である。歌われる場面によって国歌が持つ“意味”は大きく変わる。それは単なる歌詞を越えた、もはや言語化も不可能な別のエネルギーをも生み出す。この映画ではこの役割を持つ曲がいくつもあると考えると、この映画自体の持つエネルギーも変わってくるのかもしれない。
特にこの映画で歌を暗喩として用いたのは、「抑圧からの抵抗/解放」である。序盤では子供たちが父親から、中盤では大人たちの己の弱さから、そして終盤ではナチスから、自らのアイデンティティを確かめそして自由を抑圧するものから己を解放するために歌う。そしてそれは時として連帯を伴い、その真骨頂が終盤でのエーデルワイスだったのだろう。前半で描かれた家族の連帯が、結果的に国民の連隊に繋がる。「この国は変わらない」に何重もの意味を付け加えた巧みな描写である。

全体的に展開がいちいち唐突だった感じは否めない。歌の効果もありそれなりにいい方向には進むが、登場人物たちの感情が時々見えにくくなってしまっていた。割と大事な場面でもそれがあったのが残念である。
イホウジン

イホウジン