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こおろぎのnetfilmsのレビュー・感想・評価

こおろぎ(2006年製作の映画)
3.7
 波の穏やかな風光明媚な場所を男女は訪れる。静岡の西伊豆あたりにあるこの場所にはおそらく彼らの別荘があり、ひと気のない避暑地で過ごす彼らの心はリラックスしているはずだが、男女の間には不穏な匂いが漂う。老人(山崎 努)は目も見えず口がきけず、杖だけを頼りに歩く。そんな老人と不釣り合いな田坂かおる(鈴木京香)は男を自分なしでは生きられない男性と評するが、彼女は決して男の伴奏者にはならないのだ。港付近の道はそれ程整備されておらず、海の匂いに誘われるように老人の道程は危険な場所へとうっかり足を踏み入れそうになるが、そんな時だけかおるは彼の伴奏者となる。彼らが夫婦なのかそれともカップルなのかはわからない。もしかしたらそのどちらでもないのかもしれない。とにかく老人は目も口も不自由なのだから自己主張のしようがない。だが老人は衝動的にかおるの匂いを嗅ぎ、肉体を求める。老人の言う求めるとは生物的な「じゃれあい」にも近く、かおるはそんな男の衝動をただただ忌み嫌うのだ。2人に会話らしい会話もなければ、コミュニケーションのようなものもおよそ皆無だ。象徴的なベッドは2つに分けられ、性生活はない。彼女が目覚めると老人は既に外着に着替え、朝日を浴びている。朝食の目玉焼きの黄身だけをすする姿は『家族ゲーム』の伊丹十三を想起させる。チキンを喰らう老人とかおるとはリバース・ショットで一見しっくり来ているように見えるが、老人にはかおるの姿は見えない。

 かおると老人がこの地を訪れた理由はいったい何なのだろうか?彼女は勃起不全となった男の道行きを黙って見ている。目も見えず口もきけない老人は『楢山節考』のようにこの村に捨てられたとしても何の主張も出来はしない。当初はおそらく、ヒロインが自分なしでは生きられない男性を無残にも置き去りにする話かと思っていたがどうやら違うらしい。急ごしらえにしか見えない酒場でかおるはタイチ(安藤政信)と出会う。男は街で滅多に見かけない美しいかおるの姿を遠くからじっと凝視する。その姿は若者らしいセクシュアルで挑発的で太々しく、彼女をひたすら見つめ続けるのだ。だがおよそ漁師町には似つかわしくない風貌の男には案の定、レイコ(伊藤歩)という女がいる。薄幸のヒロインは勃起不全の老人に共依存的に支配されながらも、自由奔放な性を望んでいる。煮立ってふにゃふにゃになったちくわは勃起不全のメタファーであり、この街の空気で体調を取り戻すかに見えた老人をあの頃のように元気にしてくれない。口もきけず、目も見えない男性の世話は介護であり、酷い物言いをすれば「飼育」そのものだ。老人は時折、癇癪を起すものの、その理由は我々観客にはわからない。自然に囲まれた街は2人を穏やかにはしてくれるが、残念ながら2人の関係性は変えてくれない。庭木の伐採が老人の自死のメタファーだとすれば、洞窟の中でかおるが見たものは何だったのか?共依存同士の関係はその洞窟での決定的な場面から位相を変える。かおるだけがそこにいて、老人やタイチやレイコたちは幻のように振舞うのだが、ラストには老人だけがそこにいるのだ。

 『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と『サッド ヴァケイション』の間に位置する今作は、完成し映画祭にも出品されたものの、国内では配給会社が見つからず、お蔵入りとなった。確かに難解な物語に配給側が難色を示したのも無理ないが、全編にVシネマ時代の空気が充満した今作は光石研や斉藤陽一郎といった青山組の役者たちが出演し、青山真治のやりたい放題が炸裂している。沖縄から連れてきた沖縄民謡の歌い手とかクライマックスで海から揚げられた物体とかさっぱりわけがわからないが、青山真治監督にはずっとわけのわからない映画を撮り続けて欲しかった。3月21日に57歳の若さで亡くなった青山真治監督にあらためて哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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