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ジャコ万と鉄のニューランドのレビュー・感想・評価

ジャコ万と鉄(1949年製作の映画)
3.4
『ジャコ萬と鉄』(3.4p)及び『姿三四郎』(3.1p)

 黒澤·本多·谷口という山本嘉次郎門下の親友3人、後の2人は、ゴジラを始めとする怪獣·変身ものや、三船の伝奇冒険滑稽時代劇で、大人に映画館に連れてって貰ったりや、学校での教師企画の上映会で、お馴染みではあったが、黒澤だけは長い間、名前は勿論·その作品も観た事がなかった。が、いざテレビでたまたま観たりすると、谷口だけが1人、後景に下がっていった。『銀嶺の果て』や『赤線基地』らの意欲作もあるが、イマイチ、ジャストミートとはゆかず、スッキリと伝わってくるは、『暁の脱走』『潮騒』くらいか。その後者も含め、後にリメイクされるような作品や、逆に喜八の軍記ものを引継いだような、会社や世の流れに従ったような、無個性と言われかねない作品が多いのも確か。しかし、編集に長けていなくて、黒澤の助力を仰ぐこともある、この人は、ショットの新鮮な力を掴み·放つ能力はあるのかもしれない。後の深作版に比べても、作品としては弱くも、随所に光が認められる。その映画を超えた輝きを集約してゆけば、とも思うが全体の中の部分という感覚は掴めない人なのだろう。
 今回観たプリントは、そういった個性に合い、モノクロの弾けや強度が特によく出てた。北海道ニシン漁の説明とその実際のロッセリーニの名作匹敵のディティール積みとつや、意固地な親方進藤のキャラとCU表情の得も言われぬ無言見詰め、賃金の低さに燻る出稼ぎ者らの日常、その中にいて·それを煽る·嘗て親方久蔵に置去りにされ瀕死の恨みを晴らしに来てる·強者ジャコ万、その停滞を両者を引寄せ·広く高い視点に持ってくのが·戦地から帰還の久蔵の息子の鉄と·理論派だが虚弱で過去を明かさぬ学生上がり、彼らの格闘·牽引·演説の包み上げる力、ジャコ万をひたすら追う女と·鉄の通う教会のピアノ演奏少女の神性の存在、寒風強い港や馬橇の雪原の制御外自然の力、姉とその婿の為にまた離れてく鉄ら、実景·セット·Sプロセスを貫く意気。
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 後の深作リメイクもその脚本をほぼそのまま使わせたという、オリジナルの輝きだが、殆どオリジナルを20余年後になぞった、後の方のも観る。悪くはない。共に黒澤の本。
『姿三四郎』リメイクは、戦前黒澤前後編を繋げた脚本、宝塚映画=黒沢プロ製作作品で、モノクロスコープ、修道館側=加山·青木·三船·卜全、柔術(空手)側=雄之助·加東·岡田英·山崎努、女性陣=九重·原知·飯田らで固めてるも、前3/5はついこないだオリジナルを見たばかりで、精神真髄や品格や出発点無心戻り、らが繰返され、タッチはスマートだが起点や極めが弱く、望遠めのクルクルと内で纏まるアクション絡め、進む。味気ないなぁと思ったると、『続~』にあたる後半2/5は、前に観たのが40数年前のせいもあり、単純に楽しめた。プロレス部分はなくも、檜垣三兄弟の複雑な味わいはオリジナルに近く、「何故、敵多く、憎まれるのか」と藤田ならともかく、加山が言うと不条理でそこから、望遠コンパクト闘い·稽古や、取分けスコープのトゥショット等飾り無い長めが·音楽も高め、友情や恋の情を張り詰める(「もうこの街を見るのも最後かも。いや、やはり幌を、寒いかも」~小夜との出くわしに人力車上の檜垣)。
 演劇と同じに、リメイクなどとは言わず·同じ磨かれた脚本·戯曲で、フレキシブルに創るも普通の演出家(例えばマキノやヒッチ·ルビッチみたいな)、観る側も、その時代対応·新機軸を、もっと普通に楽しむ、が原典隠さず·当たり前になると、このメディアも成熟してきた証しとなる気もする。
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