nere795

ライフ・イズ・ビューティフルのnere795のレビュー・感想・評価

1.0
本当にしつこいな、何度も繰り返し単発のアカウントを取って、このレビューを批判してくる人

自分が気に入ってるならそれでいいので、他人が、嘘くさい、気に入らないというのを意見を変えろってのは無理でしょう?
同調圧力こそ、この映画の背景であるナチス、全体主義が目指したものだ、ということが理解できないんだろうか??
どんな批判があっても、レビューを取り下げたり、意見を変えるつもりはないので
泣けないものは泣けないし、好きになれないものは好きになれません。それだけです コメントが付いたら、必ず再掲します

愛が戦争をやめさせるとか、言う人は、今、この瞬間にも、ウクライナやパレスチナで行われていることを想起してもらいたい。この映画で何を救えるというのか?そのことについても

さて、ジョズエは、英語ではジョサイア、言うまでもなく、旧約聖書のヨシュア記のヨシュアである もっとも、このヨシュアは、ギリシャ語では、イエススで、ベニーニはそれを知っていたのか知っていないのか…。中の人としてのベニーニが、自分を今でもユダヤ人であると思っているのかどうかにかかわることではある。ユダヤ人を演じただけで、自分はユダヤ人ではない、キリスト教徒の教育を受けている、親がユダヤ人だった、ユダヤ系に過ぎないというのが彼の主張なのかもしれないが

それはさておき、前半はハッピーだが、後半は…というような評価もあるのだが、実際にはこの作品の構造は、前半と後半は大きく関連している 
つまり、ユダヤ人迫害の根本的な理由が、前半で語られていて、それが一貫して最後の悲劇的結末で回収されるからである

まず、基本的な知識として、ヨーロッパでは、ユダヤ人であるかどうかは、すぐに外見や振る舞いでわかる、ということなのだが 
日本人にとって、おなじヨーロッパ系白人にしかみえないのだが、そこは、まずもって感覚は違うとしか
もちろん、学問的には、ユダヤ人とは、宗教的民族区分であり、人種的な違いではない、とされる つまり、ユダヤ教を信じていれば、ユダヤ人だから、日本人でも、ユダヤ教に入信すればユダヤ人、というのが一つの建前
だが、その一方で、長いこと閉鎖的な婚姻を繰り返してきたユダヤ人には、一定の文化的あるいは人種的な差がキリスト教徒やイスラム教徒との違いが固定されてきた よく指摘される特徴は、「とにかくおしゃべり」ということ、その他、欧米社会では、とかく異質なものとしてとらえられる(とらえられてきた)ことは否定できない

アカデミー賞受賞の発表の瞬間、ベニーニは、座席の背もたれの上に土足でしゃがみこんでその喜びを表現したが、その行儀悪さを指摘すること自体が、ユダヤ「系」への異質さを意味するなら、それは憚られるべきだ、ということになる まさにポリコレなわけ

非ユダヤ社会を象徴するドーラとその関係者と、主人公との関係は、まさに平時でのユダヤ人の扱いそのものが、差別的だったことを示しているし、スクリーンを観ている側にも、なんとなくユダヤ人なるものの反感が伝わってくる、そういう仕掛けが前半部分だということ そういった異質感をうけいれることこそが、差別撤廃の近道であり、実際にそれを受け入れるドーラが正しく(小学校での乗っ取り演説がそのハイライト)、またそれに共感できるこの映画を評価する観客も正しい、ということを制作側は言いたい、逆に言えば、この映画に嫌悪感を覚えるとすれば、間違った差別意識の残滓であって、正しくないという仕掛けになってる

収容所で再会した医官のなぞなぞについて
監督主演であるベニーニ自身は、賞を受賞後、なぞなぞには答えは特にない、答えが特にないこと自体が、収容所での理不尽さを象徴している、という趣旨の回答をしているようだが、それは(おそらく)後付けのごまかし

いうまでもなく、黄色はユダヤ人差別の象徴(ナチスの黄色バッジ等参照のこと)、上記の通り、うるさくしゃべるのはユダヤ人の特徴、つまり、うるさく鳴きながらうんちをまきちらす、というのは、ユダヤ人への憎悪を意味する
ついでにいえば、カモノハシは、哺乳類でありながら卵性、つまり「あいの子」で、コンベルソやその子供であってもその蔑視の対象であることを意味している グイドとドーラの間の子、ジョズエ(イエス)も無辜ではないと

医官とグイドは、ユダヤ人狩り以前のホテルでの付き合いでは、客とウェイターとしての良好な関係を築いていたのに、ユダヤ人収容所では、医官に望みを託すグイドのかすかな希望に反しで、医官はユダヤ人に対する蔑視をあからさまにして隠すことがない、というのがここでの描写の意味

…なのだが、おそらくは、この映画公開後、特にユダヤ人関係団体から厳しい批判にさらされたこともあって、こういったユダヤ人に対する差別表現の色彩をなるべく排除しようとしたものと思われる

内容については、彼のサーカス団でのピエロの経歴が長かったことが示すように、監督ベリーニの映像も、また俳優としてのベリーニの演技も、うすっぺらい人間像や、煩瑣な大道芸的な描写が鼻につく 帽子を連続して盗る、という情景は、サーカスの舞台なら笑いの渦かもしれないが、映画という作法の中では、現実ならば許されない不調法であって観客の側には不快感しか催さない

演技、表情その他すべてにおいて主役の親子3人に感情移入できない

例えば、ベニーニの配偶者でもある女優を起用しなければならない必然性はあったのか?
子役だって、もう少し可愛いのがいたんじゃないのか?と思うが、まあそのあたりは趣味の問題だし、この作品の価値(の低さ)に大きく影響を与えるほどのことでもない
唯一、医官役のブーホルツは、ユダヤ人に対する厳しい対応を演じていてさすがだが、演者達の芝居としてみるべきところとしてはまあそれぐらい

最後のシーンに、アメリカ英語を話す兵士が、スーパーマンよろしく颯爽と現れるのは、アメリカアカデミー賞狙いだと言われても否定できないだろう

このラストシーン、感動派の中にもさすがに違和感を覚える人も結構いるわけだが、特に、バカな(という設定だとしか言いようがない、いくらなんでもずっと騙され続けてるのはバカじゃなきゃできないだろう)子供はともかくなんで母親まで、父親の存在が「なかったかのように」晴れ晴れしているのか?なんだが…
すごーーーく、穿った見方をすれば、ジョズエ=イエススは、イノチェントな存在であり、父親は、イエスキリストに対するヨゼフと同じく、きわめて薄い関係でしかない、ということの暗示なのだ、つまり、不細工な母親は世の中のマリアにして、ジョズエは戦後の新生を象徴する存在なのだ、と
だったら、戦車の米兵が「神」なのか(実際に助けたんだから、「神」なのかもしれんが)、っていうのはさておくとしても、多くの観客が咽び泣く(らしいが)家族愛のはずが、父親をヨゼフ並みに落としてもいいのか(ちなみに、カトリック教会でもヨゼフが、イエスキリストの「父親」にふさわしい扱いを受けるようになったのは遅れること20世紀に入ってから、それまでは正式には聖人にすら数えられていなかった 世の中に聖母マリアに捧げた教会聖堂は数知れないが、ヨゼフに捧げられたのはほとんどないのがその証拠)っていう話になるんだが、それでいいのか??

で、その家族愛なんだが、「こんな父親になりたい」「父親として立派」「理想のお父さん」…、絶賛の嵐なわけだが、むしろ、自分には、周囲にはお構いなしに、ジャージ姿でワンボックスカーで移動し、焼き肉屋で子供が走り回って周りの客が迷惑してんのをそのままに、おかまいなしに「子供は元気が一番」みたいな家族の像と重なる 自分たちだけ良ければいいのか? この映画の前半のドタバタでも、大の大人のいたずらとして許容できない行動が目立つし、後半の収容所では、叔父をも含め、周囲の迷惑はおかまいなし、すべて自分たち親子3人のために世界が回っているかのような描写が続く
「最高の父親」というような評価は、こういう究極の自己とその延長としての家族の幸福だけを第一義的に考える浅薄なミーイズムの肯定でしかない 尊敬する人物に「父親」と書き込む層の、読書体験・人生洞察の不足が指摘されて久しいが、この映画の人気ぶりもそこに通じるものであろう

その典型のワンシーン、収容当初、担当官からドイツ語で注意事項が告げられるのを、通訳を買って出て、でたらめなイタリア語に訳す…、収容所という極限の状況設定でこれを面白いと思える感覚は、自分にはない

自分の映画鑑賞史上、最低にして最悪の映画
二度と観ることはないし、人にも勧めない(あくまで個人的見解です)

ただし、この程度の造りで、感動できたり涙が流せるような人には、悪い人はいないんじゃない(単純な人々という意味で)か、とも一瞬思える
だが、逆に言えば、ニュルンベルグの大集会や、第一回学徒出陣の涙の神宮球場で、歓喜にむせび「感動」していた、人たちとどこが違うのか?とも思う
つまり、何となく「ナチスは悪い奴だった」程度の認識で、この映画で、「平和の大切さを学びました」と言ってのける人たちは、「民族的危機」に直面した時には、真っ先に、ジェノサイドの側に立つのではないのか?
そんなことを考えると、いい人ではなく、きわめて危険な存在に思えてくる

そういう炙り出しのリトマス試験紙として、逆説的にこの映画が長く「評価」されつづけている意義を強いて見出すこととする

最後に、博愛(fraternité)とは、ひろく(博く)他人を愛することであり、その語源が、兄弟fraterから来ているように、それは他人をまるで兄弟のように愛することを意味する 
この映画に、そして焼き肉屋のジャージヤンキー家族にも、決定的に抜けているのは、この博愛に他ならない 
世話になったはずの叔父に対してすら、主人公がその死に向かう彼の気持ちに寄り添った痕跡はない 
そしてヒトが社会的な文脈で生きていく”間主観的存在”である以上、博愛なくしても「人生は美しい」と言い切るれるなら、それは野獣と変るところはないのである
nere795

nere795