あなぐらむ

夏の妹のあなぐらむのレビュー・感想・評価

夏の妹(1972年製作の映画)
3.1
返還直後の沖縄でオールロケした大島渚、ATGでの最後の仕事。場所が場所だけに非常にコンパクトに作られていて、16ミリで撮られた自主製作映画の味わいがある。表向きは、栗田ひろみと石橋正次という当代人気アイドル共演、という事だったのだろう。当時14歳だったという栗田が大変溌剌と捉えられていて、石橋正次も斜に構えたあんちゃん風でとても良く、いっそこの二人の話(戦後世代の)になっていれば、だいぶ違ったんじゃないかと思う。冒頭の青い海の映像に赤いタイトルが鮮やかである。

脚本の佐々木守は龍宮城モチーフの作品が他にもあるので、恐らくこれは佐々木がメインとして書いたものを田村が加筆などして、現地で大島が直したりした共作なんだと思う。この龍宮城モチーフは、荒木太郎がパージされる前に撮ったピンク映画「日本夜伽話 パコってめでたし」(2017)でも、もう少しファンタジックに描かれている。各地に伝わる浦島伝説は沖縄にもあり、龍宮=ニライカナイ=常世の国という発想に基づいて、ベースラインは作られたのだと思われる。浦島太郎が京都(丹後)の民だったという所も採用されているだろう(これは大島渚が京大出身だったっていうのが大きいんじゃないかと思うが)。
ひとつ捻ってあるとすれば、このおとぎ話の後日譚として、若い二人の女性が探訪するという点だ。

この、さほど年齢の変わらない継母・百子(りりィ。資料では小藤田、となっているが台詞では「後藤田」と聴こえる。後藤田正晴が警察庁長官だったのは1969年から。71年に沖縄の学生が皇居に侵入している)とスータンこと娘・菊地直子(すなおこ)の変換間もない沖縄旅行の道程が物語の骨子である。これは一種のミスリードになっていて、沖縄の青年で自分の兄かもしれない鶴男(石橋)を、直子も、また百子も探しているという仕掛になっている。
これに帝国軍人だった桜田(いかにも豪放な嫌なおっさんを殿山泰司が見事に演じている)と、直子の父で百子の婚約者・菊地(こちらも滲み出るいやらしさが凄い小松方正)が本土側からの来訪者として加わる。前半を殿山が、後半を小松のえぐ味が支えている。沖縄側は警察署長の国吉(佐藤慶)と三線を弾く音楽家・照屋(戸浦六宏)というインテリな二人が非常に意図的なキャストをされている。乙姫様…じゃなかった鶴男の母・ツルに小山明子(掴みどころのない妖艶な女を好演。実際の乙姫は亀の化身説は、亀じゃ駄目でしょう、という事だろう)。桜、菊、という戦争世代と、戦後の「素直」。観客は直子と共に、事の次第を見届ける事になる…のだが。

まずもってパスポート無し行き来できるようになった沖縄を映像として撮っておく、記録としての、風景映画としての側面が本作にはあり、実際の所返還がどうの、戦争犯罪がどうのといった事というのは理屈づけに過ぎないと思われる。更に、丁寧に「アメリカ」の影は拭われている。まぁまだ米国領土みたいなもんだだから色々とあったろうが、今なら「基地の街」という主題もあろうがそこには落ちて行かない。そして主題はいつの間にか60年代学園紛争へと下位置換され、そこで穴兄弟になった菊地と国吉、犯されたツルの話へと転調していく。ツルは哀しむでもない。恨むでもない。ただ鶴男は「自分の子だ」とだけ主張する。その鶴男は百子とやってしまうし、血脈の流れがどんどん混線していく。これを見ているとやはり、大島渚のピンク映画/成人映画への拭い去れない欲求を感じざるを得ない。結果的に彼は「本番」という禁じ手をもってしてロマンポルノを凌駕していくわけだ。

クライマックスに人物が全部揃っちゃうのは大島映画あるあると思うが、沖縄の浜辺でキャラクターがぞろぞろ歩くシーンは佐々木守の意図した「常世の国」への行進(「ウルトラQ・ザ・ムービー」でもやってる)でもあろう。解決したようで何も解決していないエンディング(そもそも兄と妹、である事の問題がここでは棚上げにされている)で、桜田が照屋を海へ突き落す場面で映画はぷつりと終わる。殺されに来た男(贖罪したい側)・桜田と、殺したい男(罰したい側)・照屋は、あっさりと形勢逆転してしまう。無様に落下する戸浦六宏の姿に、こっそりと72年の、そして今も続く何かが描出されている。

戦中・戦後世代にとっては、途中までその犯罪に加担していたという負い目がある。信じていたものが崩れ、体制が変わっても生きている事の負い目。自分が持っていた「純粋」を、彼らは「妹」として描く。素直で純朴で、それでいてどこかエロティシズムを持つ「妹」を、栗田ひろみとりりィという二つの「身体」で映画は描く。
「むかし むかし 浦島は」ハスキーな声で歌うりりィの声は、おとぎ話からはみ出して行く。あけてびっくり玉手箱、放蕩した浦島太郎の「老い」を、大島も佐々木も、どこかに気配として感じていたのだろうか。

冒頭に書いたようにオールロケの殆どハンディカメラみたいな画に加え、編集もさほどキレがある訳でなく、映画としてのルックは非常に弱いが、まぁそれはいつも大島渚、という事かもしれない。彼は撮りたいものが外から与えられたものであり、実際にば凡庸な人なのである。

※栗田ひろみとりりィの70年代ファッションは、今の若い人が見ても興味深いと思う。