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ユリシーズの瞳のKSatのレビュー・感想・評価

ユリシーズの瞳(1995年製作の映画)
4.0
映画誕生100年の年にアンゲロプロスが生み出した、大巨編。いろんな意味で「よく撮ったなあ」となること間違いなしだ。

ハーヴェイ・カイテル演じる映画監督の主人公が、ギリシャ最初の映画監督マナキス兄弟の幻の3本のフィルムを探すため、バルカン半島縦断の旅に出る。

このプロットだけ見るとフィルム・ノワールのようなサスペンスのようだが、そこはアンゲロプロス。列車に乗り込み、別の車両に移ると途端に昔に戻っていたり、ルーマニアのコンスタンツァでギリシャ人の家族たちが勢揃いする大晦日の場面でいつの間にか5年の月日が流れていたり、そこで写真撮影をしようとするとカイテルが少年の姿になってカメラの前に立ったり。

仕舞いには、カイテルの人格がマナキス兄弟の兄ヤナキスに変わったり、追体験したりする。一方、そんなカイテルの前には、マヤ・モルゲンステルン演じる女性が、あらゆるキャラクター(昔の恋人、マケドニアの映画博物館の研究者、ブルガリアの農婦、サラエボの映画研究家の娘)となって、現れたり消えたりする

このように、一つの場面の中で次々に時代やキャラクターが変わる中でバルカン半島の歴史が紡がれてゆく一方、印象深いカットもかなりある。

特に目を見張るのが、クレーンで吊り下げられた巨大なレーニン像が宙に浮かぶ場面。画面いっぱいに浮かぶレーニンの頭は観る者に強烈な印象を残すが、やがてそれは胴体もろともボロボロの船に乗せられ、乗り込んだカイテルと共に川を往くのだ。この金にものを言わせてとにかく撮りたいものを撮る姿勢は、素直に凄いと思う。

改めて映画の一つ一つの場面が持つ力や意味について考えさせられる映画だが、それは合間合間に挟まれるマナキス兄弟による糸を紡ぐ女性たちのイメージに対しても言えることだ。

この一見他愛のないフィルムはなぜこうも印象深く、力を持つのか?女性たちの絶妙な配置や牧歌的な見た目とは裏腹に忙しない動きがもたらす奇妙な多幸感からか、今では見ることができない19世紀ギリシャ「らしい」情景に対する博物学的/文化人類学的な関心からか、あるいはここに映る人々が皆、もれなく今ではこの世にいないからなのか、それとも「ギリシャ初の映画監督が撮った」という情報による先入観のせいなのか?

このような眼差しをもってバルカン半島の歴史と映画史を見つめるアンゲロプロスのカメラだが、面白いのは、それがギリシャであれアルバニアのティラナであれ、マケドニアのモナスティルであれ、ブルガリアであれ、ルーマニアのブカレストやコンスタンツァであれ、セルビアのベオグラードであれ、見た目がほとんど変わらないこと。どれも曇っていたり雪が降っていて、鈍色の殺風景な街であり、実は全部同じ街で撮ったのではないかと疑ってしまうほどだ。

しかし、最後に行き着いたサラエボは他とは異なり、明らかに浮いている。ユーゴ内戦直後に撮影され、生々しい傷跡を遺したままの街並みは、突如その姿と共に、戦争の悲劇が映画の中での絵空事ではないことを提示する。よく撮ったな、としか言いようがない。

映画史の流れの中で悲劇の歴史をサラエボという街に見出す試みは、この10年後にもゴダールが「アワーミュージック」で行っているが、ゴダールが映画の終末部に天国を見せたのに対し、アンゲロプロスによるこの映画の結末は、より厳しいものになっている。
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