YasujiOshiba

未知への飛行のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

未知への飛行(1964年製作の映画)
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2023年の一本目。篠崎さんがノーカットで放送されるよと教えてくれたのでBS録画。CMをカットしてから鑑賞。画質良し。内容良し。ルメットの演出もキレッキレ。

キューブリックの『博士の異常な愛情』(1964)と同時期にできていて、訴訟沙汰にまでなったことを知る。キューバ危機(1962年)の後だったことを考えればタイミングのよい作品だったのだろう。

ルメットの映画が原作とした『Fail Safe』は1962年の出版(日本では1980年に『未確認原爆投下指令フェイル・セイフ』のタイトルで創元SF文庫から橋口稔訳出版) 。一方のキューブリックの原作『Red Alaer』は1958年刊。原作が棹さしているのは、むしろアメリカが原爆実験が繰り返した期間(1946年〜58年)の政治的な緊張なのではないのかな。

なにしろ、このころ1957年にはネヴィル・シュートの『渚にて』が出版され、58年にはスタンリー・クレイマーが映画化している。イタリアで言えばルキノ・ヴィスコンティがビル・ヘイリーとコメッツの水爆ソング『13人の女たち』を引用した『白夜』は1957年。フェデリコ・フェリーニは、その『甘い生活』(1960)で、インテリのスタイナー(アラン・キュニー)に核戦争による世界の終わりを嘆いて子どもたちと無理心中をさせている。

いや、日本のほうがずっと先行しているのかもしれない。なにしろ『ゴジラ』は1954年の作品。この怪獣映画の元祖は、同年の第五福竜丸の被曝事件から着想されたのだ。奇しくも、その3年後に東海村で日本で初めての原子炉が稼働することになる。

こうやって考えてみれば、たぶんルメットの『Fail-Safe』も、キューブリックの『Dr Strage Love...』も、最後には原爆投下のボタンを押してしまうところがポイントなのだろう。さらに、時間は逆行するけれど、クレイマーの『On the beach』には核戦争のゆきつく果てのイメージ。そうした黙示録的なイメージには、核をめぐる東西冷戦の馬鹿騒ぎへの痛烈な批判がある。それは、人間の愚かさへの反省が、娯楽として受け入れられるようになったということなのだろう。

原題の「fail-safe」とは「たとえ間違えても安全」なシステムのこと。人間は間違える。だから、たとえ間違えても安全に設計しておこうという発想。しかし「間違えても安全なシステム」そのものが間違えることはないか。安全なはずのシステムが暴走することはないのか。もしかすると、そこでは人間の勇気と叡智だけでは、どうしようもないことになりはしないのか。この問いを、キューブリックは『2001年宇宙の旅』でもう少し進め、コンピューターの暴走を描き、さらに『A.I.』では(もともとはキューブリックがやろうとしていたらしい)では、さらにその先を描こうとする。

ここに描かれているのは、人間の無力さ、そのちっぽけさ。対置されているのは、自らが作り出したテクノロジーの万能感。ルメットは一方にブラック将軍(ダン・オハーリー)の悪夢を、もう一方にグロテシェル教授(ウォルター・マッソー)の論理的な傲慢を置くと、その真ん中にヘンリー・フォンダの大統領とラリー・ハグマンのロシア語通訳を配置する。そこでぼくらに見せてくれるのは、お得意の法廷ドラマ。はたして人は人とどこまで意思を疎通させらえるのか。どうやって危機を回避しようとするのか。どこまで賢く、どこまで愚かなのか。すべてはフェイルセーフ機構の誤作動に端を発しながら、じつのはうまくやれば、空からの神の鉄槌たる原爆が落ちることを回避できるというゲームという様相を呈する。

そんなゲームを、ぼくらはどこまで娯楽として楽しめるのか。あるいは楽しめないのか。ベンヤミンなら「芸術の政治化」と呼んだはずの作品がここにある。
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