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地獄への挑戦のnetfilmsのレビュー・感想・評価

地獄への挑戦(1949年製作の映画)
3.7
 1882年、賞金首のジェシー・ジェイムズとその仲間たちは銀行強盗などの無法の数々を繰り返していた。彼らは非道の限りを尽くしてお金を巻き上げていたものの、強奪金よりも懸賞金の方が皮肉にも跳ね上がり、暮らしぶりは一向に良くならない。そんなジェシーに妻は泣きわめき、大声でまくし立てる。「昔は一緒に農家をしながら懸命に努力したのに」と。今作はアメリカ西部開拓時代の伝説のガンマンであるジェシー・ジェイムズを元にした西部劇である。サミュエル・フラーはビリー・ザ・キッドと並ぶ伝説のガンマンの英雄譚の結末を修正し、弟分だったボブの裏切りと狂気の物語へと書き換えている。非道の限りを尽くしつつも、弟分のボブには寛容だったジェシー・ジェイムズは時にミスを慰め、親しげに話しかける。妻のボブを揶揄する問いかけにも、ジェシーは一切動じない。

そんな人生の師であるジェシー・ジェイムズの無防備な背中を、短銃一発で死に至らしめる行為は残酷で容赦がない。警察から逃げたミズーリの隠れ家で、傾いた額を直す几帳面なジェシーの背中を、ボブは少しの躊躇がありながらも撃ち殺してしまう。西部劇において、正面に相対していない相手を撃つ行為は、最も卑怯な行為であることは想像に難くない。冒頭、賞金首をあしらった軽妙なタイトルバックから唐突にジェシー・ジェイムズたちの銀行強盗の場面に移るのだが、そこでのジェイムズは行員を怯ますほどの鋭い眼光で、行員と相対する。無法者たちにとって敵対する相手に見せるべきは、背中ではなく鬼気迫る顔だということを、これ程端的に現したショットがあるだろうか?フラーはジェシー・ジェイムズと行員の相対する緊張感のある向かい合う場面を、それぞれのクローズ・アップの交差と短い足元のアップの挿入で一気に見せるのである。それゆえに風呂場で湯船に浸かるジェシー・ジェイムズの隙だらけの背中には、問答無用にボブへの愛情と油断が窺い知れる。ボブとはずっと苦楽を共にしてきた兄弟以上の間柄であることが明かされてからほどなく、前述の犯行の瞬間はやって来るのである。

ではボブをそこまで追い詰めたのはいったい何だったのか?男たちの友情に突如、女が顔を出す。彼女は田舎の劇団でどさ回りの主演女優を演じているシンシー・ウォーターズ(バーバラ・ブリトン)であり、彼女の思いがけない言葉が、ボブとジェシー・ジェイムズとの決定的不和(殺し)へと繋がるのである。しかしボブとシンシーの仮初めの恋の描写がまた容赦ない。彼女は男のロマンよりも、未来永劫安定した職種をパートナーに求め、それに呼応する形でボブは人生の師であるジェシー・ジェイムズの背中を撃ち抜くが、撃ち抜いた瞬間、彼女は窓辺に佇みながら、知らぬ存ぜぬを繰り返すのである。思いがけないファム・ファタールの一言に騙された男は一転して狂気へと転落していく。兄貴分を殺した男が実際に自らの役柄を演じる場面の自己矛盾の滑稽さ。男は精神の均衡を静かに乱していくが、そんな男に救いの手を差し伸べるものはどこにもいない。やがて彼に手を差し伸べてくれた呑んだくれの老人に対し、ボブはとんでもない凶行で返礼を果たすのである。

酒場で呑んだくれ老人を背中から撃とうとした男に対するボブの発砲は、そのまま自己矛盾の弾として自らに深く突き刺さる。彼に投げかけた正論が自らの心に深く突き刺さり、分厚い棘となって終始抜けることはない。シンシーへの純愛の感情も、彼以上に将来の見込みのある流れ者のジョン・ケリー(プレストン・フォスター)の真摯な行動に阻まれ、ボブの感情は言いようもない袋小路へと陥っていく。時間は前後するが、酒場で彼をさげすむ歌を唄う流しの歌手をつかまえて、本人だと名乗って、続きを唄わせる場面の息苦しさには胸を締め付けられる。そこでボブは自らの行為の間違いに気付き、取り返しのつかなくなった自分の運命を自嘲気味に呪うのである。アメリカでの記者生活から、ヨーロッパでの数多くの従軍経験を経て、再び映画脚本家稼業に戻ったサミュエル・フラーが、盟友ロバート・L・リッパートの肝入りもあり、初監督作として構想したのはカエサルを殺したカシウスの物語だった。だがリッパートは聡明にもフラーのその草案を却下し、ジェシー・ジェイムズとボブの愛憎物語を選んだのである。独立プロで製作費10万ドル、撮影日数10日という条件で撮られた、サミュエル・フラーのデビュー作はこの制約を逆手に取り、贅肉を完璧に削ぎ落とした形で陽の目を見ることとなる。それはB級映画の到達点として後々顧みられることとなったフラーの資質を今に伝える処女作である。
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