ーcoyolyー

二十才の微熱 A TOUCH OF FEVERのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

二十才の微熱 A TOUCH OF FEVER(1993年製作の映画)
3.6
なんだこれ。映画としては完全に破綻している。のだけれども、芸術というものが声にならない心の叫びを表現するものなのだとすれば絶対に無視できないし無視してはならない。

大学生の時ぶりに観たのだと思うのですけど、PFFに出品しようとする人に囲まれて過ごした環境では橋口亮輔監督はもう大スター、希望の星として燦然と輝き君臨していました。この映画自体は私が高校生の時に公開してるんだけど、私が観たのは『渚のシンドバット』観る前か観た後かも覚えていない。ただ、『渚のシンドバッド』でのアイドル女優時代の浜崎あゆみ演じる果沙音(役名を漢字含めて覚えていたことに今驚いた)があまりにも私過ぎて映画館で倒れて友達に迷惑かけて申し訳なかったなと恐縮していたのが鮮烈に印象に残ってるのに対して、こちらはなんかよくわかんね、つまんねえと言っていいんだろうか、いやそうやって切り捨てるのも躊躇するしなんかわかんね、という忸怩たる思いを抱えつつ放置し続けて幾星霜、やっと言語化できる時が来たのは喜ばしい。

橋口亮輔って三島由紀夫をやりたい西村賢太みたい人なので、少なくともこの作品の頃はそうなので、その背伸びのせいでみみっちくしみったれた貧乏臭さやちょっとしたところの品のない汚らしさが悪目立ちして映画全体がちょっと見苦しくなってしまう。育ちの悪さを開き直って見せた西村賢太は逆にどこか清々しく清潔感すら漂うのですけど(あの人は描いてる内容の割に意外と文体が清潔だからなのもある)、育ちの悪さを隠そう隠そうとすると却って強調されてしまうという悲喜劇が生まれてしまう。

最下位には最下位の戦い方があって、落伍者には落伍者の戦い方があって、優等生には優等生の戦い方がある。そのチョイスを間違うとどの組み合わせでも非喜劇が生まれる。私はつい最近までそのチョイスを間違い続けた人間なので共感性羞恥が半端なかったです。

ただ、この人、ゲイなんだけどゲイの監督にありがちな女への絶対的な関心のなさから来る徹底したモブ扱いや逆に嫉妬に塗れた敵意剥き出しの扱いはしなくて、何故か対等な存在、一人の人間として個性をそのまま撮ろうとするんだよね。そこには無関心や敵意ではなくて憧れがある。これちょっと珍しくて彼の美点だと思う。多分この映画に出てくる女性たちの造形は、「あの時の自分にこんな理解者がいて欲しかった」という渇望なんだよね。ある種の理想の押し付けではあるんだけど、そこに恋愛というか情愛というか性愛というかそういうものは無縁なので全く気持ち悪くなくて理想を押し付けられても爽やかに澄み渡った気持ちになれる。そうだな私もこういう風になれたらいいなと素直に受け入れられるし素直に思える。これはもっと橋口亮輔監督の評価されていい部分です。私『ハッシュ!』の片岡礼子みたいになりたい、とあんなに触れ回ってたのにここでこんなに片岡礼子が重要な役で出てきたの綺麗さっぱり忘れていたことにはびっくりしたけど。でも片岡礼子は良きですね。

まあでもそういう映画軸としての評価は監督自身が客として出てくるシーンで全て吹っ飛びます。あそこは完全にドキュメンタリー。カミングアウトするにあたってオドオドビクビク震えている心がそのまま映し出されている、ちょっと他ではお目にかかれないものです。役者もあそこでは何も演じてなくてただリアルに感じた気まずさや場の空気に対する漠然とした恐怖に飲み込まれて居心地悪く収まり悪い感情がそのまま掬い取られて記録されている。カミングアウトってそんな物分かりのいい感情でやれる人だけではないと思うので、そのざらついたリアルさがこうやって世間にぶちまけられてるのはものすごい事件だ。密室で近しい関係者に打ち明けているものをそのまま記録して全世界に公表するってそれは確かに芸術としか言えないものなのだと思う。芸術というものが居場所のない感情、名付けようのない感情の発露なのだとしたらこの映画は映画ではなくとも芸術そのものなのだと思う。

あ、そうだこれ、今ならストーカーというような行為に対して「スパイしちゃった」と表現をしていて1993年当時はまだ『ストーカー』という単語が広まってなかったと、そうだそうだ私も高校の校門の前で待ち伏せされて気持ち悪がってもストーカーとはその人は呼ばれなかったなと思い出して、でも大学では「常にストーカーを引き連れて歩く女」というありがたくない二つ名をいただきまして、『ストーカー』という単語が人口に膾炙したのはいつだろう、そのものズバリ『ストーカー』というタイトルのドラマが放送されたのはいつだったろうと調べてみたら1997年で、この間の1995年に私は大学入学したので丁度その頃に徐々に広まっていってたんですね。そして私は環境が変わってもストーカーを引きつけていてそれを同級生にどの環境でも揶揄されているということにも気づいた。
ーcoyolyー

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