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二十才の微熱 A TOUCH OF FEVERのotomisanのレビュー・感想・評価

二十才の微熱 A TOUCH OF FEVER(1993年製作の映画)
4.1
 微熱どころか低体温な感じの袴田が「売り専」で男娼営業をしているあたり、愛を求める相手が女ではなくて、ということなのか求めあぐねてそこにはまり込んでるだけ?実は誰にも愛を向けられないし受け止めえない性質なのだろう。だが、それはなかなか自認し辛いところに違いない。
 それで、相思の間柄の同僚の遠藤男や年上の片岡女にそれを確かめるわけだ。それが、かかる右にも左にも崖っぷちな感じのトライアルとなる。そこに追い打ちの売り専事業のクライアントが片岡女の親父で回帰したりなんかして、こいつぁゲロっちまうのも道理だ。なんだか悪い因果応報にさえ見えるあたり、出口なしの無間地獄だ。

 時代は就職氷河期の入り口、「失われた世代」とのちのち呼ばれる袴田・島森の「なんでもないもの」になりたいという言葉が「なり得るけれどならない」から「なりたくてもなれない」まで包含して聞こえる。地上げだの財テクだのにうつつを抜かして本業をおろそかにした大人たちの後塵に息を詰まらせ望むものにはなれないかもしれない、いやきっとなれない不安と失望を共有するような袴田・島森が世間からはぐれてゆくのかと思えば、やはり生きてゆかねば始まらないのは同じであるとも思え、では、なんでもないためにどうするのか。学業を諦める?あんなクソ総務課員どものツラをまた拝むんならブチ殺すのと引き換えななぁ必至だ。誰かの愛のしっぽを掴む?二兎を追うような右へ左へにこころを翻弄される自分の低体温がちょっともどかしい。その挙句があの親父だったらタツキの道の売り専までタチ行かない。立たないことを理由に売り専まで放棄する?ならば自分は本当に何者なのか?

 実はこれが「なんでもない」存在のありさまであろう。この世界は皆に憲法の範囲内で何者かであれと告げてくる。国民であれ。男か女かであれ。税収を上げるか保護下に降るか決めよ。支持か不支持か選べ。義務と知れ。誰もが普通に済ましている事のようで、自由世界は「なんにでもなれるぞ」と成功者や宣伝屋がバカ野郎どもに向かって吼える下で成れるのは唯一今の自分以外にない。それが今の立たない島森であり、島森の不可解さを扱いかねる片岡女であり、なりたい自分の形骸に首を絞められる遠藤男である。これはゲイだのバイだのの狭い区分に棲み分けを求める話ではない。愛に関する何かが決定的に欠けているかもしれない事実に向き合いかねて迎える三者三敗の朝、明らかになったのは、嘘に嘘を重ねても生きてゆく事の発見かもしれない。しかし、昨夜の嘘をつきようのない立たない生理が道を一つ閉ざしてくれたのは間違いなさそうだ。唯一の正直を発見して、それを共有する遠藤男もまた愛を掴みあぐねる一人かもしれないと気付いて微熱も冷めた二人が一つの道を不在な愛を探り合いながらやっていけるだろうか?やってみなくちゃ分からないと気付いただけでも昨日とは違う今日だろう。
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