綾

上海の伯爵夫人の綾のレビュー・感想・評価

上海の伯爵夫人(2005年製作の映画)
5.0
敬愛するカズオ・イシグロのオリジナル脚本ということで、ずっと観てみたかった映画。やっぱりすごく好きだった…

イシグロ作品といえば真っ先に思い浮かべるのが「多くを語らない」「行間を読ませる」ということだけど、本作もそうで。亡命ロシア人貴族のプライドと絶望、盲目の元外交官の過去と痛み、ユダヤ人の隣人が知る苦難…… ほとんど言葉では語られないのに、しっかりと伝わってくるのがすごかった。謎の日本人マツダのことは、たしかにもっと深く背景を知りたかったけれど、あれくらい謎のままで終わるのも、それはそれでよかったのかもしれない。ジャクソンとマツダの純粋な友人関係が、とても好きだったから。ふたりが「夢のバー」に見た夢も。

やっぱり映像でも行間を読ませる世界観は健在なんやなあって、ますます好きになってしまった。来年公開の『生きる』リメイクも、より楽しみになりました。
もちろん純粋に映像も美しかったし、役者さんのお芝居あってこそだなあ、とも…!

『遠い山なみの光』にて訳者さんがあとがきで、
〈彼は、価値のパラダイムが変わったとき - 戦争に負けたときなどが典型的な例である - に訪れる過渡期の混乱のなかでも、不条理という見方だけで割り切らず、たとえかすかなものでも希望を棄てない生き方を描くことが多い。その人生をつつんでいる光は、強く明るい希望の光でも、逆に真っ暗な絶望の光でもなく、両者の中間の「薄明」とでもいうべきものである。イシグロの世界はこういう、どちらかというと暗さの勝っている「薄明の世界」であり、この感覚が現代人の好みというか実感にはよく合うのだと思う〉
と書かれていて、本当にその通りだなと感動したのだけど、本作のラストもまさに「薄明の光」に包まれていたな… なぜなのか自分でもよく分からないまま、咽び泣いてしまった。

時代に立ち向かうのでも、押しつぶされてしまうのでもなく、翻弄されながらも懸命に生きようとする普通の人々の姿を描いてくれるから、イシグロの作品が大好きです。

ぜひ小説でも読んでみたかったなあとは思うけれど、映画もとてもよかった。また観たい。

どうかかれらの前途により大きな光がありますように。心から。
綾