天馬トビオ

風たちの午後の天馬トビオのレビュー・感想・評価

風たちの午後(1980年製作の映画)
4.0
初公開で見逃して以来、ずっと観たかった作品を、デジタルリマスター版で鑑賞。

「誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく」

そもそも夏子と美津、2人の関係は何なのだろう? 夏子は美津に対して女性同士という「性」を越えて恋愛感情を持っている。だから美津を自分だけのものに独り占めにしたいと願っている。それに対して、美津は男とも進んでSEXをするように、女性同士という限られた「性」だけを対象にした恋愛意識は持っていない。夏子は美津の部屋を訪ねて泊まることや、いっしょに食事をしたりショッピングを楽しむことはある。だけど、「恋人」同志であることを示すような、それ以上の生々しい描写はいっさい描かれていない。

頼りなげで幼く、あどけなさが残る夏子と、都会的に洗練されていく大人びた美津は、どう見ても同い年には見えない。夏子にとっての美津、美津にとっての夏子。互いに依存しあっているような、姉妹関係にも見える二人の関係。

しかし、人が人を愛してしまうと、相手をどこまでも独占したくなるのだろう。それは男と女の関係だけでなく、例えば女と女――同性間の愛においても変わることはない。愛する美津を取り戻すために、男に自分の女友だちを紹介し、ついにはみずからの体を与えて処女を失い、子を宿してしまう夏子。不特定多数の男たちと関係を持ち、学生下宿に毛の生えたような木造安アパートから、おしゃれなモルタル造りのマンションへ引っ越した美津。美津から別れを告げられ、日銭を稼ぎながらのストーカー行為や、ゴミの中から見つけたリンゴのかけらをかじる夏子の、狂おしいまでの「愛」。その行為は悲しくせつない。

モノクロ画面の中、パステル画のような日々が過ぎていく。常に紗がかかったような映像は、美しく繊細ではかない。同時に、音響による演出が効果を上げている。聞き取れるかどうかのギリギリまで絞った音声。冒頭、真っ暗なスクリーンから聞こえてくるポタリポタリと滴り落ちる水滴と、ラストの赤ん坊の泣き声……。

始まりと終わり、画面はモノクロからカラー映像に変わる。和式便器の中の深紅のバラと、部屋中に敷き詰められた深紅のバラ。「バラの葬列」という言葉を思い出した。

「誰が風を見たでしょう
あなたも僕も見やしない
けれど樹立が頭を下げて
風は通りすぎてゆく」
天馬トビオ

天馬トビオ