河

Mの河のレビュー・感想・評価

M(1931年製作の映画)
4.8
トーキーになった。よく考えたらサイレント映画はずっと音楽が鳴っているか全く音楽がないかだから、トーキーになってまず音の対比として無音を活用した映画を作るのは理にかなってるんだと思った。同時にカメラも軽量化したのか、カメラアングルやカメラ移動も凝っている。これまでのこの人の作品は1ショットが大味でショットの連続としての良さがなかったように個人的に感じていて、今回はその無音の使い方に合わせたようにかなりスタイリッシュな良い意味で薄味な画面になっているように感じた。サイレント映画では画面だけで情報量を担保できるようにニュアンスではない記号的な役者の表情、動きが必要と読んだことがあって、その必要がなくなったっていうのも画面の大味さが後退した理由かもしれない。サイレント映画的な役者演出を復古させようとしてる感覚のあるウェスアンダーソンの最新作が情報過多だったのも考えると。さらに冒頭の誘拐シーン、警察の電話の裏での捜査のモンタージュなど、連続として見ることで良さを感じる画面になっている。そしてその音としても画面としてもある種存在感が希薄だからこそ、画面に映ってない何かの存在、存在としての犯罪、それによって引き攣った社会的な空気を強く感じた。

表社会としてその秩序や制度を司る警察、大衆としての市民の2つの層があり、それを反復する形で裏社会として裏社会を掌る人達と、市民より下層にいる浮浪者達の2つの層があり、表社会の市民と裏社会は交わらない。そして犯人は表社会の市民に属する存在で、その子供への誘拐殺陣は犯人の姿を借りたような形で社会的不安として現れる。犯人は自分の意志ではなく夢遊病的に何かに乗り移られたような形で犯罪を行う。そしてその社会的不安の被害者は犯人を含めた市民、労働者として裏社会にいる女性達になっている。
だからか、犯人を含む市民に対しては社会的不安に対して被害者にも加害者にもなり得るような描き方がされているのに対して、犯人を追う人々である警察や女性を除く裏社会の人々は全員事件に対して他人事で、喜劇的なキャラクター造形になっている。
警察は制度として犯人を裁くことができる一方で、その社会的不安に対して全く機能していない(街が無音である)。それに対して裏社会の人々は警察と違い、ある種街を味方につけている(街の音が聞こえている)ため犯人を探し出すことができる、ただ秩序を保てない。そしてそれぞれ当事者でないため、犯人を捕まえることのみが目的でその社会的不安への解決には繋がらない。
その結果、犯人とされる男が捕まって裁かれる一方で、市民は冒頭から何も変わらず社会的不安と共に取り残されたまま、そしてその男も本当に犯人だったのかわからないまま終わる。
街を把握してるようで地に足つけては把握していない警察と、街をそこに住む人として把握している裏社会の人々の対比は、無音と音の対比と対応していて、警察は街の音が聞こえていないのに対して裏社会の人々は街の音が聞こえている。そして犯人への手がかりは全て音になっている。また、警察が明示的に映されない演出によっても、市民や裏社会の人々と制度である警察との乖離が表されているように思う。
無音や見せない演出も相まって、当事者である市民とそうでない警察や裏社会の人々の描き方の対比によって、その乖離した二者の狭間に居続けさせられるような謎の浮遊感がずっとある。そしてそのまま市民抜きの裏社会の法廷劇、警察の法廷劇っていうクライマックスに雪崩れ込み、最後にその置き去りにされた市民として被害者の母親のセリフで終わることで、その乖離の感覚が決定的になる。
河