このレビューはネタバレを含みます
10/02、AmazonPrimeにて視聴。字幕版。
『メトロポリス』で有名なラングの作品。画作りや音の効果が巧みなのと、特に冒頭と終盤の話運びはシナリオも含めてぐっと引き込まれる。
本作は1931年に製作されたドイツ映画で、犯人が一向に捕まる気配のないまま少女たちが殺されていき、不安が募るベルリンの街の様子と、実際に犯人を突き止めて彼を捕まえることを描いている。前半はほぼ犯人の姿を出さないまま、殺される少女や動揺する街を撮し、後半は犯人が追い詰められて逃げ惑う様子がメインとなる。
30年代前半のドイツといえば、WW1後の混乱も治まらないまま迎えた世界恐慌やじわじわと存在感を強めて既に第二党にまでのし上がっているナチ党の台頭などの背景があり、本作全体を貫く不穏感はそうした社会も反映されているものだと思われる。
社会全体の不安が現在を否定し、その結果皮肉にもナチ党への支持率が伸びたと言われるように、本作はまさにそういう社会を描き出したものなのではないかとは観ていてしみじみと感じた。街に漠然と漂う陰鬱さ、将来への不安。その矛先が向くのが子供であって、主人公はある意味、社会の擬人化でもあるのではないか。見るからに危険というわけでもない、むしろ社会に馴染む人柄で生活し、裏では将来を潰し、現在の人々には漠然とした不安を与え続ける。主人公自身もあわや私刑されるときの告白で、自らのうちにある不安が自分を狂わせるのだと打ち明けもしている。
そしてまた民衆たちも本作では化け物としての特徴を持っていて、互いに信頼のない警察機関と民衆たちが各々で犯人を追い詰めようとする非協力的な様子だとか、犯人探しに躍起になって少しでも怪しい素振りがあれば無辜の人まで捕まえようとするだとか、犯人逮捕のためなのであまり責められないけれど、街中に監視社会を作り上げるだとか、ビルに逃げた犯人を捕まえられるなら何でもいいと及ぶ破壊行動だとか。特に、民衆側に捕まって廃工場に連れ込まれた犯人に対し、私刑をするつもりの彼らが大勢で彼の言動を逐一笑い飛ばすシーンなどはいっそ恐怖である。犯人を一致団結して処刑しようとする大衆たちも各々に何かしらの罪人で、中には人殺しも混じっていて、それでいて自らは正義である、これはこれそれはそれと振る舞おうとする大衆の狂乱がいちいち怖い。
我が身のうちにある不安と、それに耐えられなくなったときに抑えが効かなくなって起きる蛮行。何でもない人間が不意に正道から逸れて行う邪道。繰り返すようにこれは当時の(そしてまたそれから後の)社会そのものを反映したものだと思う。無論、シリアルキラーを擁護するわけではなくてそれはそりゃもちろん悪いのだけど。
個人または社会の不安が巻き起こす悪と、自らを善として行える蛮行と。普遍的なものを取り上げた作品でもあって、終盤のシーンなどはまさに現代の身近なものを重ねて観たりもしていた。すぐそこにある恐怖を描いていて、無関係なものではない。
やや余談だけど、いざ犯人を追い詰める段階で、だいぶその捕縛が冤罪になり得る可能性とかあったので、犯人で良かったねとはちょっと思った。あの、整合性そっちのけで行動に移して集団で追い詰めるという怖さも意図的に表現しているのだと思うけれど。ぐるぐる目になった人間は怖いものです。それが集団ともなるともうそこで待つのは分かりやすい例だとそれこそ大戦期のそれになるのだ。
ちなみに主役を演じたピーター・ローレはユダヤ人であるため、とてもドイツにいられる状態ではなかったため、外国へと発ち、のちにハリウッドで活躍するようになったという。