すえ

Mのすえのレビュー・感想・評価

M(1931年製作の映画)
5.0
記録

敬愛するフリッツ・ラングのフィルモグラフィはすべて所持していたいが、現状今月の家賃も払えそうにない限界大学生の俺には困難を極める。アマゾンプライムさんには本当に感謝しかない、これほどの解像度のものを配信してくださるなんて、ありがたや。

『映画とは何か』(加藤幹郎)の第2章【記号の視認】を補助線として鑑賞。

抽象的記号(M)というラング的主題、その記号を解釈しうる者たちのネットワークという網の目の中で容疑者は監視され、追い詰められてゆく。

抽象的記号がラング的だとするのは『人間の欲望』における“F”、『扉の蔭の秘密』における“7”、『激怒』における“22”、もちろん今作『M』における“M”、そういったそれ自体が空っぽな記号に、映画的文脈の中で意味を与えるところが所以である。

この名著での目的は、ラング映画が亡命に伴い、抽象的な記号の単純な連鎖から具体的な記号の複雑な連鎖へと変化していくことを示すことにあり、ここでは触れる意味がないため割愛。視認性の高い抽象的記号から、視認性の低い具体的記号への変貌とその効果の変化の論考はとても面白かった。以下は個人的なもの。

今作において最も恐ろしいのは、殺人鬼という絶対的な個ではなく、境界が曖昧な集団としての“個”である。その巨大な生き物は集団浅慮に陥り、責任の分散から誰がどうすることもできず、極端な方へ偏ってしまう。殺人鬼の長い独白に感情を揺さぶられる聴衆(我々含め)は、個としては感情移入をしてしまい何が正しいのか葛藤に悩まされるが、“個”としての我々は容赦なく殺人鬼を断罪しようとする。こういった題材は寧ろ現在において重要性が増す、今作における群衆よりも現代のSNSの方がよっぽど怖くて醜い。ラングは時代を超える作家だ。

トーキーだけれどサイレント期の名残もあり、映像の力が凄い(ラング作品はどれも凄いが)。キャメラもとても面白い動きをするし、置く場所も面白い。冒頭の“死”の表象としてのボールや風船の運動、不動という死を敢えて運動で示してしまうところが良い。

それに、もう既に音の使い方が卓越している。音の連続性を生かしたり、在/不在の表現までやってみせてる。口笛=殺人鬼というイメージを観客に焼き付け、映像では不在でも口笛が殺人鬼の記号となるため、知らぬ間にか音それ自体が殺人鬼の存在の認識へと移り変わっている。

徹頭徹尾支配的な円、環というイメージが半端なく効いてる。というか今作だけじゃないよな、ラング的主題ともいえそう。円というイメージというよりも、囲うという方が近いのかなと思う、逃げ場のない包囲網。監視され、共有され、縛られ、終いにはリンチされる、そういったもの。

ラングは本当に面白い映画を撮る、早いとこ『ドクトル・マブゼ』『ニーベルンゲン』『スピオーネ』あたりのドイツ時代も観たいんだが高すぎる、世の中は結局金なんすよ、辛い🥲︎

2024,93本目 4/14 AmazonPrime
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