shibamike

ミステリー・トレインのshibamikeのネタバレレビュー・内容・結末

ミステリー・トレイン(1989年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

Joe Strummer 「No, Elvis, Elvis, or Presley!」

といった具合に、とにかく「エルヴィスって呼ぶのやめろつってんだろ!」ガーエー。もしくは「カール・パーキンス is Best」ガーエー。
 映画はテネシー州メンフィスのとある1日を描く。
メンフィスと言うと、綿花。
綿花と言うと、黒人奴隷。
黒人奴隷と言うと、ブルース。
ブルースと言うと、ロケンロー。
ロケンローと言うと、エルヴィス。
今、映画の魔法を乗せて、ミステリー・トレインがメンフィスに到着するのであった!シュポポポポー!
撮り鉄「撮影の邪魔だ!どけよ!金だろ、これ!!普通に金だろ!!」


観光に来たロックンロールオタクの日本人アベック。
ローマ行きの飛行機が欠航になって足止めを喰らったイタリア人女性。
仕事と妻を失い自暴自棄なイギリス人男性。
 これらの人がそれぞれ奇跡的に同じホテルの1つ屋根の下(ちぃ兄ちゃん!小雪!あんちゃんはさぁ!)、急接近するのだけど、別段これと言って何か交流が起こる訳でもなく、それぞれ淡々と次の日を迎える。
だけど、メンフィスに滞在したこの1日が彼らにはそれぞれまったく違うものとして映っていた。


3つのストーリーで構成されるジャームッシュ監督お得意のオムニバス形式。3コードムービー。


1つ目のストーリーは、工藤夕貴と永瀬正敏アベックによるストーリーで、これがウルトラ良かった。何ならこの話を別作で90分見たい。この映画当時1989年であれば、エルヴィスやカール・パーキンスといったミュージシャンはすっかり過去の人物であらうし、当時はMTVもすっかり定着し、とにかく派手派手派手の音楽シーンがメインストリームと思われる。そんな中、時代錯誤甚だしくこの日本人アベックはピュアにグッドオールドロケンローへの憧れを語って憚らないのであった。「サン・スタジオとグレイスランド、どっちから見学行く?」と若いアベックが相談しているのである。工藤夕貴のエルヴィスのスクラップブック、最高じゃんね。
 時代の最先端だから追っかけなくちゃ、とかではなく、最先端じゃなくても自分はこれが好きなんだ!という強い意思が非常に自然で、見ていて非常に心温められた。
 若いアベックらしく夜には一発ヤるのだけど(工藤夕貴、身体張ってんね)、永瀬正敏の早漏ぶりが尋常ではなく(20秒くらい)、「これもオフ・ビートということなの?」と自分は驚かされた。これは我々オスのジャップに対するジャームッシュ監督による下半身への差別的表現と自分は考える。後年、「コーヒー&シガレッツ」でもジャップへの差別表現が用いられるが(ツリ目)、本作の時点でその萌芽を認めることができると言わざるを得ないであらう。自分の心の中の奥崎謙三が「田中ジャームッシュ角栄を○すために記す」と街宣車で著書の宣伝をしていた。
ちなみに自分は遅漏である。が、もはや使う場面も予定も特に未定、未定トレインである。


2つ目のストーリーは、裕福なイタリア人女性が空港で足止めを喰らい、意図せずメンフィスに1日滞在するというもの。上述の日本人アベックと同じホテルに宿泊することになるのだけど、このイタリア人女性は夜中にエルヴィスの亡霊と部屋で出会う。
で、このエルヴィスの亡霊が何とも情けないのであるが「住所を間違えた」とか何とか言って、そそくさと消えてしまう。
 普通この場合、どっからだう考えてもこの日のこの夜にこのホテルに現れるのであれば、日本人アベックの部屋に現れてやるのが正解であらう。工藤夕貴がエルヴィスの亡霊に出会ってたら、絶対泣いて喜んでたぜ。という残念な亡霊であった。
 2つ目のストーリーの主人公であるイタリア人女性であるが、ジャームッシュ監督の映画でよく見かけるニコレッタ・ブラスキさん(ロベルト・ベニーニの奥様よね)。ダウン・バイ・ローではその豊潤な脇毛をギリギリのラインで我々観客に披露してくれ、自分の脇毛フェチを開眼させてくれた恩人である。ダウン・バイ・ローからもう3年も経ってるし、
柴三毛「脇毛は…もう…剃っちゃった…よね?」
と自分が少し寂しくスクリーンを見つめていたところニコレッタさんの両脇とも、モッサモサの熱帯雨林がチャオ♪てなもんで、「ベニーニ!😄この助平マカロニ野郎!😄この野郎!😄」と自分が悦びの酸性雨の涙を流したのは言うまでもない(?)。
Give 脇毛 a Chance.
脇毛を我等に。
(ベニーニとの結婚は91年らしく、本作時点ではまだ結婚していないっぽい。マカロニ!)


3つ目のストーリーは、仕事と妻を失った地元在住のイギリス人男性が弾みで、ピストルで人を傷つけてしまう、というもの。
 で、このイギリス人男性こそエルヴィス以降のロケンロースター、ジョー・ストラマー御大である。作中で髪が黒いからという理由でニックネームが「エルヴィス」のジョー・ストラマー。「その名前で呼ぶな!」と怒るのが何ともKawaii。
 ピストルで事件を起こし、仲間2人と舞台であるホテルに潜伏するジョー。ホテルの部屋でジョーは小便にしけこむ。ジョー以外の面々が部屋で会話しているその背後で、ジョーの小便音であるジョロロロロ音がご丁寧に聞かせてもらえるのだけど、このジョロロロロ音が長いなんて言うもんじゃないんである!普通に2、3分くらいずーっとジョロロロロとやってんである。ハッキリ言ってジョロロロロ音が気になって、会話の内容やら字幕の内容やらがまったく頭に入ってこなかった。
柴三毛「アンタの膀胱はクラッシュしてんのかい?」
と思わず一言言わずにいられないほどであった。
 このシーンは恐らく我々オスのジャップに引き続き、ジャームッシュ監督によるイギリス人男性への下半身的な差別表現ということであらう。永瀬といい、ジョーといい、まともな泌尿器の男はおらんのか?さう思わずにいられないシーンであった。


何気ないメンフィスの風景で、シャッターにスプレーでstaxと殴り書きされていたり、閉館した劇場なんかが色々サラリと映し出されていて、音楽の土地ということを思わされた。
でもそんなメンフィスだけれど、数年前に見たドキュメンタリー映画で、メンフィスでは音楽の灯が消えかかっていると言われていて、諸行無常であるよね。



最終的に3つのストーリーは、関わり合っているやうで大して関わり合っていないやうに自分には見えた。ただ全く見ず知らずの人間達が偶然同じホテルに宿泊していましたよ、…だからだうなんだよ!という不思議な印象を受け、そのままガーエーは終わった。
 ポカンとしてしまったが、家に帰り、本特集のパンフレットにて角田光代が本作へ寄せた文章を読んだところ、大きな感動が後から自分に押し寄せてきた。
 立場の違う人間のストーリーが3つ描かれていて、彼らはホテルの窓から見える夜の景色、ラジオのブルー・ムーン、早朝の銃声、によって同じ経験を共有していた。
メンフィスに死ぬほど憧れている外国人アベック(工藤と永瀬)。メンフィスに興味のない裕福な外国人(ニコレッタ・ブラスキ)。メンフィスに住む地元民(ジョー・ストラマー)。
 この3者から見るとそれぞれメンフィスはまったく違うやうに見える。角田光代の文章を読んで一番あっ、と言わされたのが、そもそも「メンフィスの寂れ具合の凄まじさ」であった。調子が良い頃のメンフィスを知らないので「へぇ、こんなもんなんか」くらいにしか思わなかったが、よくよく考えるまでもなく駅に人が全然おらず、街に人の活気もない。
 しかし、工藤と永瀬にはそんなこと関係ない。夢にまで見て憧れたあのメンフィスである。夜に永瀬が黄昏れながらしみじみとメンフィスの街をホテルの窓から眺める視線はやはり特別なものだった。メンフィスは最高の非日常。
 ニコレッタ・ブラスキの場合は憧れもヘチマもない。とっととこんな変な街、立ち去りたいとしか思っていない。メンフィスは最低の非日常。
 地元民であるジョー・ストラマーの場合は不景気で仕事を失い、街に対してフラストレーションだらけ。メンフィスは最低の日常。
 そんな立場の全然違う3者が奇しくも同じホテルに集結し、それぞれの日常と非日常が並列する。これはそのまま我々の人生そのものと言えさうである。
自分にとっての日常が誰かにとっては非日常であり、その逆もまた然り。さういう何とも言えない繊細なものを本作は切り取っている、という風に思えた。
ミステリー・トレインは誰も差別せず、平等に連れて行ってくれる。音楽そのもののやうである。
何故、舞台がメンフィスなのか。自分の勝手な想像であるが、ひとえにジャームッシュ監督によるロケンロー愛、メンフィスへのリスペクトということではないでせうか。
 


上映が終了し明るくなった場内を出て、UPLINK吉祥寺のロビーにてスタッフ数名に対し、パワハラ言動をしつつ劇場を立ち去る。
 パルコの外に出て、夜空を見上げる。ガーエーで歌われたやうなブルー・ムーンが吉祥寺の夜空にある訳はなく、路上飲みにいそしむ若者達を横目に「君らはエルヴィス・プレスリー聴いたことあるか?」と思いながら帰路についた。


エル三毛 プレスリーの一句
「エルヴィスの もみあげ暖か さうだよね」
(季語:あげ→きつねうどん→うまい→鍋→冬)
shibamike

shibamike