河

赤い砂漠の河のレビュー・感想・評価

赤い砂漠(1964年製作の映画)
4.2
主人公の住む場所は近代化しつくしていて、川は工場の排水によって、空気も毒のような煙によって汚染されている。その中で、主人公と夫、そしてその友人達は程度の違いはあれど全員が不感症となっている。そして、ウズラの卵をバイアグラとして飲むことで感じることができるようになる。

主人公は事故によって、体と心が分裂しており、感覚と心も一致しない。足の感覚がないため地面にどんどん沈んでいくような感覚がある。そして、膝が感じるための場所として置かれることで、それが不感症と重ね合わされる。
心身の分裂した主人公にとって視覚も機能しておらず、色鮮やかな工場、そこから出る化学物質はぼやけた原色としてしか認識されない。そして、主人公はそのぼやけた色彩に街の汚染、それにより不感症となった人々を見る。そのぼやけた色彩に怯える。

主人公はそのぼやけた原色のない世界を夢見ていて、それが主人公が子供に話す島が歌い出すエピソードに象徴される。主人公は自身の店をその島の海、自然と同じように青、緑で塗ることを考えるが、それはその街、そして経済に寄与する、汚染に寄与するという行為とは一致しない色である。

主人公は今いる場所ではない場所、その島へと逃避することを夢見る。それが主人公が何度も幻視する船に象徴される。そして、主人公に想いを寄せる男が現れる。その男は一つの場所に定住せず移動生活を送っている。主人公がその男と結ばれることは、船に乗って島へと逃避することと同じ意味を持つ。

船が転覆しないようにする、バランスをとるための機構として回転儀がある。主人公の心身の分裂は自身の回転儀を失ったことを意味しており、今いる場所から出る、海に出たとしても沈んでしまう。
さらに、主人公は心身の分裂、それに伴う不感症によって欲望が満たされることはなく、何か一つではなく全てを欲する。それに対して、船に乗って移動することは一部のみを選んで持っていくことを意味する。そのため、主人公にとって船で移動することはその分裂が解決しない限り不可能となる。

そして、その主人公が幻視する船は汚染された水の上に浮かんでおり、船内も汚染されていて感染症が蔓延している。主人公の子供は汚染によってか同じく不感症になり、足の感覚を失う。それが船の感染症によるものだったかのように、主人公が幻視した船がいなくなると子供もまた歩けるようになる。
さらに、船での移動を意味する男は、イタリアで労働者を集めアフリカへと斡旋している。男との船での移動はアフリカへと向かうものではあるが、その先には労働者としての生活しか待っていない。そしてその男が信じていることは正義よりも進歩である。

主人公は一度全てを捨て、男、そして船で移動することを選ぶが、船が向かう先が今と同じく汚染にまみれた場所であることを知る。それが男と結ばれている時に見るぼやけた原色に象徴される。そして、窓から外を見ると原子力のように光る街灯が見える。

主人公はそれによって島への逃避を諦め、同じ場所に同じように住み続けることを選ぶ。「鳥は毒だと知ってるから煙の上を飛ばない」というラストのセリフはその島、憧れていた自然がもはやその場所に存在しないこと、そしてそれを求めることすらやめてしまったことを表しているように感じられる。そして、主人公にはまだ工場の黄色はぼやけた黄色として見えている。主人公は最初と全く変わらない状態のまま、全てを諦めたような形で終わる。

電子音が工場や汚染、原子力を表すような音として置かれているが、オープニングの音楽は主人公が子供に話す島の歌う歌が、その電子音にかき消されるものとなっている。そして主人公が全てを諦めた後、エンディングの音楽にその島の歌はなく、電子音のみが響くようになっている。

『太陽はひとりぼっち』は近代化に伴う原子力、非人間化などの予感へと逃れられずに踏み込んでいく男女についての映画だとすれば、この映画はその予感に全てが飲み込まれてしまった後の世界についての映画。この監督の三部作と同様に何かのきっかけによって心身の統合が崩れ、それと同様にこの世界の負の部分が見えるようになる。それがここでは冒頭で説明される事故となっている。

この監督の黙示録的な感覚はコントラストの強い、そして光によるくっきりとした強弱のあるモノクロの画面でこそ生まれるものだったような感覚がある。白と黒のコントラスト、光の当て方によって異様なものが浮かび上がってくる感覚というか。そしてそのコントラストが音の抜き差しとも連動していた。それらがカラーに置き換えられたことで画面の情報量が増え、その白と黒、地とオブジェクトのような二者間のコントラストがなったように感じる。『太陽はひとりぼっち』のあの馬車が走るだけで異様に見える感覚、向かいの窓の暗闇からぬっと人が現れる感覚など。

さらにカラーになることで現実から遊離した見えた画面が現実の延長線上に乗ってしまったように感じる。『情事』のあの火山のシークエンスはもしあれがカラーだったとしたらあそこまで不吉な予感に溢れたものにはなってなかったんじゃないかと思う。色彩がキーモチーフとしてかなりうまく使われた映画ではあるけど。
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