レ

青春群像のレのレビュー・感想・評価

青春群像(1953年製作の映画)
4.0
映画と全然関係のない話から入りますが……

女性に特有の生きづらさや、差別を告発する作品に男が触れたとき、出てきた感想が「反省した」だとなんだかシラけるのだが、それがなぜなのかを最近よく考えている。たまたま最近思い出したので千葉雅也を例に話をします。

二年ほど前、千葉雅也が東浩紀に対して怒り、断交を突きつけたのだが、その理由は東が「君はゲイで対談相手はノンケなんだから対立するはずだ」と煽り、繊細さを欠いたセクシュアリティの扱いをしたからだった。東は謝罪したが、千葉は許さなかった。その姿勢は下記のツイートにあらわれている。

“昔はやんちゃだった男が「疲れて」よりリベラルに転向する、女にも男にも慎重になると言ったって、じゃあ前のことはどうなるんや、ですよ。”

これは非常に説得的だと思う。「反省」や「謝罪」という概念には、これまで世の中で使われてきた通例上、相手の許しを期待する湿っぽいニュアンスが含まれている。
だが、立場や当事者性の絡んだ話になったとき、安易な反省や謝罪は「許されようとするな」という被害者の憤りにつながり、ある意味では「加害者であることすら許さない」状況が発生しうる。

男が「反省」することの無為さ、滑稽さはこういうところにあるのではないか?と映画を観ていてふと気づいた。まあ男とか女とかはほんとは関係ないし、例はなんでもよいのだが……。

= = = = =

本作は青春の終わりを描いたもので、街の不良たちが遊び呆けている間に責任が発生したり、家族がいなくなったりでまどろんではいられなくなる、そこにイタリアの政治的な不安が影を落としているという群像劇である。

不良なのでバカなことばかりやっていて、そのたびにみんな謝ったり、わかるだろとかわかってくれとか言うのだが、上で書いたような「許し」をテーマに見ているとなんだか可笑しかった。許したり許されたりとかというのは、特定の時代や思想を背景にしか成立しないのだと思う(昔の映画やドラマを観ていて「これは今の時代では受け入れられないな」と観客が引いてしまうのは、モラルの変遷は当然として、そこに許し許されるモデルという前提の揺らぎがあるのではないか)。

本作においては、不良たちの群像劇全く別のところで、いわばそのような群像劇から抜け出すものとしての旅立ちが描かれていて、まあ爽やかでいいんじゃないかと思った。

自分がフェリーニに求めている過剰さ、気の多さ、ニーノ・ロータの狂騒的なムードが出揃っていて楽しゅうございました。



「昔の作品を見て倫理的なNGを感じるのは、倫理観の変遷だけでなく、許し許されモデルを成立させる前提の揺らぎがある」というテーゼの汎用性デカい、昔の作品全般に言ってこうかな
レ