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ヒンデンブルグのotomisanのレビュー・感想・評価

ヒンデンブルグ(1975年製作の映画)
4.1
 「ヒンデンブルグ」の全長は「大和」とほぼ同じ。ところが体重は「大和」の6万トンに対して僅か242トン。この体重の多くは全長に渡って詰まった20万立米の水素ガスを保全するために費やされ、運賃400ドル、2008年当時なら5900ドル相当だそうだが、大枚叩こうともびくともしない乗客50~70名の2泊3日の安楽のためには最少重量しか割かれない。
 彼女のキャビンは今どきどこにでもある事務所の休憩室と変わらぬ簡素さと映るだろうが、M.v.d.ローエの流れと思えば少しは心に映えるだろうか。ただ、ヒトラーからは国威を預かりながらの芸術の不在、退廃の極みと不興を買いそうだ。
 そんな、ドイツと一心同体なヒトラーは空の貴婦人に我が名が求められず「ヒンデンブルグ」が冠せられたのが気に食わなかったようだ。しかし、「ヒトラー」を冠した彼女の最期を知ったならただの激怒では済まなかったろう。
 6万トンの鉄の砦が麗はしの倭を名乗るのもちぐはぐなら、空の貴婦人がいかついユンカー、陸軍元帥、元参謀総長、共和制の大統領の名を帯びるのも同様だ。そして、このちぐはぐな感じに引っ掛かりを覚えないならこの映画の味も分からない。

 監督が、彼女の雲間からあらわれて、また雲に溶け込んでゆく姿をはじめと終わりに置いたのも、アメリカから敵性国家としてヘリウムの供給を拒まれたドイツの国威を背負って、替わりに危険な水素を浮揚材に用いて運用されたため、それを却ってテロルの具に利せられる悲しさをそぎ落とした彼女の素顔を示すことにある。
 それは、この夢のような乗り物の短い栄光を称えるためでもある。そのときには、「ナチスのドイツ」を宣伝するシンボルが極力見えない姿を映さねばならない。それがあの雲間から雲間への景となる。
 海上に浮かべば5万トンでも6万トンでも費やし千人、二千人でも収容し、飾り立て満載で国威を誇れようが、下界を見下ろし船の倍速で飛ぶ優越性は贅沢さの最新モードである。移民の命を懸けた生涯一度のそれではない、当たり前に世界都市間を渡洋する人々が僅か倍額ながら半分の日程で海を渡り、そんな自身のカッコよさをラジオでリアルに語る時代の産物である。

 その航路には、金を使うほどにその何倍でも稼ぐ者、生まれながらの特権階級、成り上がりも金持ちをカモる舟虫もいれば、陰に国威を守る党の番人も、彼らが追うテロリストも乗り合わせる。
 このテロリストが狙うのは彼女ではなく、彼女に付託されたナチスの国威であり、スペイン内戦に介入した非を告発することにある。しかし、もはや取り下げのきかない国威と共に彼女も壊滅し予期せず乗客乗員の半数がレークハーストで亡くなる。
 陰謀説がぬぐい切れない事件の余白を埋めたこの映画、最後の航海で交錯するこれら人々のこもごもと3年後には戦争状態になっている独米双方の抜き差しならずを押し込んで味覚散漫な印象かもしれないが、きな臭い時代にあって、国の名誉がかかった大事に際した彼らの命運の転変をその時代の空気とともに想像できないのならどうしようもない。

 これは映画公開の1975年当時ならまだ事件は40年前の事、そのときその後の成り行きを我が事も絡めて覚えている人も多くいた事で、この人たちにはニュースフィルムも実況録音も残され、繰り返し報じられたこの件が大戦に向かう曲がり角のひとつの記憶として焼き付いていたものと思う。
 更にそれから間もなく半世紀、事件から一世紀近く、就航僅か一年で散った老嬢の後ろ姿に、やがてもう誰も哀惜を覚えなくなるのだろうと想像すると鴻毛のように巧妙繊細な造りのあの巨体が余計に痛ましく思える。
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