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怒りの山河のmasatのネタバレレビュー・内容・結末

怒りの山河(1976年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

呪いを受けるキャプテン・アメリカ。
74〜75年の彼はまさにアメリカン・ニューシネマの呪いを受け、その呪縛から逃れられなかった。ラスト、爆死せずにはいられない呪い。作家に恵まれない呪い。そんな呪縛により、時代錯誤の迷走を瞑想するかの様に、出演する作品に次々と連鎖し、パッとしない(まるで)シリーズを演じ続けた。
そんな彼もアメリカン・ニューシネマが71年に(一度死んで)成熟に向かおうとしていたあの時と同じ瞬間を、やっと(遅れを取ること5年で)迎える。
76年の本作がそれで、ここから変わっていく。成熟と言うより、彼にとっての成長に近い。

本作では、遂にキャプテン・アメリカは死なないのである!

土地立退き問題の最中の故郷へ、都会から舞い戻ったキャプテン・アメリカ。しかし、有力者の嫌がらせは苛烈を極め、愛すべき弟を殺され、かつてその弟と取り合った弟の妻を殺され、さらには大地に根を張った牧場主の父を殺された。もう我慢ならぬと、採掘場へ夜襲をかけ爆破、クライマックスはボーガン片手に敵陣へと突入し、名誉の戦死!?かと思いきや、実はリベラルな地元保安官に顛末を纏められ、助かるのである。
ラストは、弟と父が遺した牧場を北叟笑みながら(離婚によって母方に引き取られていた)息子と共に歩く。やがて二人はこの地に根を張るだろうというカットで終わる。
その北叟笑む我らがキャプテン・アメリカの俯き加減の笑みが、笑うことに慣れていない、映画の中でラスト笑えなかった彼自身の不器用さが溢れ、泣けてくる。

このラストカットこそが、彼が背負ってきた人生とハリウッド・ルネッサンスを成功させたアメリカン・ニューシネマのファーストジェネレーションの自負、そんなモノから脱却できた瞬間なのである。

そして、その瞬間には、強靭な作家性が原動力となった。
若手搾取の守銭奴ロジャー・コーマンの厳しいプロデュース監視下の元、(限界はあるにせよ)成竹隙無く、だらける事なく、サクサク進行しようとするジョナサン・デミの手腕を観る事ができる。必要なカット、ここだけは見せ場だから空撮ヘリコプターを呼んでくれ!と、躍起になっている威力を感じる。ハッキリ言って、大したカメラでは無い(カメラマンにはまだ恵まれない)が、その必要なワンカットワンカットの積み上げによって、ラストカットの、ロングショットで捉えた穏やかな彼の笑顔が昇華されるのである。

因みにこの作家は、ご存知、90年代の幕開けをホラー映画によって開幕した男だ。ホラー映画によって、アカデミー賞を制し、新しいホラー、すなわち人間が一番怖い“ヒトコワ”ジャンルを先駆け、世界を征服することになる男なのだ。

さて、この成長したキャプテン・アメリカは、次にどこへ行くのか?
それは、まあまた“たわいも無い”、たわいも無い未来を描くSF、その名も『未来世界』(76)なのだが、テレビ的なライトな演出はたわいも無さを増長する一方な作品。しかしラスト、彼はガッツポーズを取って終わる。盗聴と盗撮、そして刻一刻と管理社会へと突き進むであろう自国への“不信感”を未来世界で表そうとした、そんな作品の中で、恐怖の陰謀未来世界の鼻を明かすヒーロー役なのであった。まるでキャプテン・アメリカ版・大統領の陰謀!?なのであった。
ガッツポーズの笑顔は、本当に微笑ましい、が、採算言うが、しかし、たわいも無い映画なのである。が、このテレビ程度の演出力の監督と馬が合ったのか、連続して次作も撮ってしまう。が!77年のこれが彼のキャリアの最高の到達点なのでは無いか?と思う次第なのである。
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