ニューランド

間奏曲のニューランドのレビュー・感想・評価

間奏曲(1957年製作の映画)
4.5
『清作の妻』(増村版)を観るつもりで『泣いてたまるか』映画版を同じ会場で観て、30分目安で夕方までに済ます用事に駆けづってて気がつくと5時1~2分、もういれてくれない所なので仕方なく他の会場の作品を探す。
明らかに内容・キャスティング(F・ロゼーは圧巻に終盤を輝かしてくれるが、ラストのクレジットで気付くまでよく似た人がいるなぁと思ってた)・バジェット・製作期間、本意の作品でないような、冷たさ・弛さ・平面性は感じてゆくが、そこに作品のあり方を超えた作者本来の力の隠せない張り詰め・軋み・動き始めが、聖的・始源的なそのままのかたちを見せてきて飾りなくもそら恐ろしい世界の在り方を観てしまう。画面の奥や隅からの気付かせるもの、人の接触の瞬間と一体のデクパージュ細か変化、構造物と人等の配置の動かせぬ立体、光感・照明・装飾・衣装の色彩の柔らかい荘厳さへの浸り、複数者の玉突き・しかし液体的動き始め、等は恐ろしいほどの才気だが、飾りない(ヴァリエーションあっても)切り返しが中心にでんと頼りあるのかないのかすましてあって、それは隙間ない非スコープ作品と違い回りを見えない何かが漂い、妙に怖い。各人物の特定者への求めとそれによる別の関係者へのいなしや利用が相手も入れ替わり入り交じる・それを反発よりそのまま受入れることにも迷わぬまわりの土壌、主人公(の結論)を除いて皆、常識で考えると、ちょっとぞっとするような事を言っているのだが、その押し・迷いの振り切りの潔さ・強さに逆に圧倒され、人間性の正直な発露・解放の方向まで感じとれたりする(内容に共感できるかどうかは別にして)。ある種の倒錯性が、建前では届かぬ真実への入口を、内面世界でのみ到達できる・見返りと無縁の儚い無上の歓びを垣間見せてくれる。サーク世界だ。
以前、ハリウッド映画史において、短期間に一本の凡作もなく、恐るべき傑作を集中・連打(他の時期もすごいが)した作家として、’30年代半ばを中心としたルビッチを挙げたことがあったが、前々から思ってて大事な名前を書き忘れていた、言うまでもなく’50年代半ばを中心としたサークである(繰り返すが、ドイツ時代も、’40年代も凄いのだが)。そして、これも人と話す度に出てくるが、映画史上最高の造形力・密度(内外共)で他を寄せ付けなかったふたりとは、ラングとサークのことである(今回見終わって造形では’ 50年代溝口的でもあると思った、そして先に挙げた名がドイツ出身者ばかりなのも、何か創造の狂気の源にあるものを想像する)。会場にはサーク世界無条件没入・信奉のひとが集まってたようだが、しかし、日本では一般認知には至っていない、高評価もマイナーにとどまってると思ったことがあった。数年前、箸にも棒にもかからぬ世紀の駄作・代表的作品として、鑑賞本数世界有数・傑作といわれるは全て観た・米映画はワイラーとワイルダーと言い切る評論家らしい人が、今回も後のトークで話題になった、サーク=スタンウィックのモノクロ大傑作を当然の唾棄の対象と挙げてて、信じられないと思ったことがあった(反というより嫌・蓮実+バザンのその人も、またマイナーで、いまの日本には確たる映画論調などないのだろう)。
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