Yuki2Invy

存在の耐えられない軽さのYuki2Invyのレビュー・感想・評価

存在の耐えられない軽さ(1988年製作の映画)
4.5
ミラン・クンデラが今年(2023)亡くなられたそーで、でも私は普段ほとんど読書自体をしないので、そのコト自体は特に別段気に留めてはいなかったのですね。が、ある人が(この機に)またこの原作小説を読み直したら⇒やっぱ非常に面白かった…と言っていて、それを聞いた私も原作を読んでみて⇒で映画も観直した…というコトになるのですね。そもそも私、映画の方は随分昔に(⇒到底この手の作品を他に観てた様な時期じゃないって位の大昔に)何故か不思議にも観ては居たのですが、正直その時は全然ピンと来なかったとゆーか、「長いな…でも薄いな…妙にエロいな…」位しか印象に残らなかった…とゆーのが正直なトコロだったのです。だから多分、この原作が確実に文学史上に残る傑作だってコトには、意識すら全く向いてなかったのが(また)正直なトコロです。

んでまず、今回原作ってのを読んでみると、マ~とにかく思った以上に歯応えバッキバキな超・難敵!だったのですよね(⇒今年の夏休み、この本を読むだけで一週間終わってしまいましたよ)。体裁としては確かに「恋愛小説」ではあるですが、各所で「『哲学的』恋愛小説」とかって言われてる状況でもある様に、マ~とにかく超絶的に小難しい!のですよ。かつ、その中でテーマとして描き出されるのは、恋愛物語としてのストーリー展開や帰結では明確に無くって、それこそ今作が「哲学的」と言われているコトの理由である、作者が語り込む価値観=人生における「重いものと軽いもの」についての深い深い思索の方、だと思うのですよね。





※そもそも、私にこの本が面白かったと言ってた人がナニを一番面白いと言ってたかとゆーて、この文章は「誰が書いているのか」が判然としないトコロが実に実に興味深いのだ…みたいなコトなのですよね(ソレとて、そもそもちょっと高度な指摘ですよね)。読むと確かに、今作っていわゆる「三人称」小説ではない=書いているのは明確に「私」という誰か、なのですケド、じゃあこの「私」てのが著者本人なのか or それとも作中に実在する(トマーシュらに近しい)誰か別の個人なのか…も当然定かにはなりませんし、でも×2前述どおり何らか誰かの価値観(及びそれを見出すに至った思考過程)を書き込んでいるからには、やっぱりこの「私」て(幾ばくかの割合では)著者本人であるに違いない…とも思いつつ、とは言えこの話が何らか実体験=ノンフィクションに類するものなのか or それとも完全なるフィクションとして(≒と見做して)読めばよいのか…といった辺りも、また(半ば意図的に)不明瞭にしてある…という印象さえ覚えるのですね。かつソレが逆に諸々の「自由度」という点で、更に更に作者が好きなコトを好きな様に語り尽くすのを可能にしている…という様な(また×2)やや高度な感覚もあったりしまして、ですね。





ちょっと前置きが長くなりましたが、要は何が言いたいのかとゆーと、重ねて、この原作小説って作者の「哲学」が凝り固まった結晶!みたいな作品なのです、がしかし、映画の方は肝心なその部分がほぼ完全に丸っきり抜け落ちている…という(ある種の)驚愕の事実!に今回気付いてしまったのですよね。そもそも、著者が原作で主として主張して・書いているトコロの「何が重くて何が軽いのか」というコトすらも、映画の方ではたぶん全然違うコトとしてしか表現されて居ない様に見えるのです⇒恐らく、中盤におけるテレーザの台詞としての「(愛あるいは人生という側面において)私は”重い”けどトマーシュは”軽い”」とゆーのが唯一だったかと。つまり、原作ではもっと全然長大に延々と散々に語り込まれているソレが、前述どおり映画の中には影も形も無い…と言って好い様な状況なのですよね。他方、展開運び自体は(この映画化は)比較的原作に準拠している様にも思えてます。でも、その面に関しても説明描写は随所で不足気味にも見えていて場面の意味自体がチョイ伝わり辛い箇所もあると(原作を読むと逆に)今回気付かされましたし、或いは主要3人のキャラのバックボーンとかは部分的に思い切りオミットされているのもまた確かかと思いますね。まあ、長編小説を映画化するとなったら多少はその取捨選択が必要になるとは思うのですが、重ね重ね、私にはモ~「本当に一番に大事なコト」を敢えて全く入れなかったという「そんなんアリ?」的な凄すぎる映像化の方にさえ見えてしまった、とゆーのが率直な感覚として在るのですよね。



ただですね……じゃあ(やっぱし)今回も面白く観れなかったのか?とゆーと、ソレがどっこい原作読んでから今回観直したら正直メチャクチャ面白かったのですよね……(ラストなんかモ~号泣!てな有様で)……もちろん先に述べたとおり、初見でイマイチ分り難かった部分が原作読んだらチャンと繋がった、とゆーのもシンプルに大きいでしょーし、観直してもやっぱし主要3人の演技は中々にハイレベル!だったとも(再度)感じます。初見時は、レナ・オリンが頭抜けて強烈だった…という感じでしたが、今回はビノシュもメッチャ可愛い+その割にビックリするほど演技も深いし、デイ=ルイスも流石に原作キャラの再現度に関しては極めて高度で巧みだった、と素直に思い知らされました。あとは、演出(音楽とか特に)とかだってかなり好い・適切だと思いましたよね。なので、個人的な結論(⇒映画版に対して)は、初見でも解説チラ見するなりして補完しながら観て貰えればおそらく楽しめる…という程度の作品だとは思うのですね⇒とゆーか個人的には、そーだとしか言い様が無いです。

だから重ね重ね、比較的成功している方の(名作文学の)映像化だ、とは最後に再び明言しておきたいのです。が一つだけ、指摘しておきたい「小説と映画の相違」として、一箇所だけ「場面の順序の変更」について触れておきます。映画のラスト、トマーシュとテレーザの行く末をサビーナが手紙で知るシーンは、小説ではラストではなくて中盤のワンシーンとして配置されています⇒原作はそもそも、全体的にも結構複雑に時系列が入れ替えられてたりしましてですね。んで却って、小説の方でオーラスに置かれているのは、実はその直前のシーン=酒場に皆で踊りに行くシーンなのですよ。映画版のラストとゆーのは、これも非常に美しい一つの終い方だったと率直に思えて居ますので、この指摘は重ねて、単なる「小説と映画の相違」でしかありません。ですが、私が言いたいのは、あの酒場のシーンこそが恐らく、小説版に於ける著者クンデラの(例の)滔々たる哲学・人生論が遂に辿り着いた「答え」だというコトなのですよね(⇒コレは、あくまで私個人の解釈というコトではあります)。では、あのシーンは、クンデラの言うトコロの「軽いもの」と「重いもの」のどちらだったのか、というコトについては、これを説得力を以て語ろうとすると更にここまでと同じ位の文量を要するコトになりますので、皆さま個々で確認して頂ければ…と思うトコロであります。以上。
Yuki2Invy

Yuki2Invy