Kuuta

晩春のKuutaのレビュー・感想・評価

晩春(1949年製作の映画)
4.4
キムギヨンの「下女」では自宅の一階が日常、二階が非日常として対比的に描かれていたが、今作もちょっと似た構造だったなと思い出して再鑑賞。小津作品は情報量が多過ぎて感想が全く書き切れない。

東西の中間にある鎌倉を軸に、再びの西洋化(というかアメリカ化)著しい東京と、古都京都を行き来させながら、父と娘の親離れ子離れに焦点を当てた物語。西洋と東洋の入り乱れる生活の切り取り方がストーリーと噛み合っている。

父親(笠智衆)の世話を理由に結婚を拒む紀子(原節子)は、洋服を身に纏い、屈託のない笑顔を見せ続ける。

だが、父の再婚話をきっかけにその安定は一瞬で消えてしまう。西洋にも東洋にも居場所のなくなった彼女は、能のシーンで鬼の形相を見せる。父の再婚相手への嫉妬、服部と結ばれなかった悔しさ、再婚そのものを不潔に感じる思い、将来の自分の立場への不安。全てを表情で表現している。(紀子が気に入っていた服部は父の助手として父そっくりな動きを見せており、結局は父的な存在を求めている?)

この映画は亡き母親の姿も、紀子の花婿候補の佐竹の姿も一度も出てこない。紀子は実体のない幻影のどちらに付くのか。

彼女は父親を理由に東西の中間に留まり、「日本の家」に寄りかかって来ただけの存在と言える。父はそんな彼女を何とかして社会に送り出す。そこに親の愛を感じる一方で、取り残された彼の悲哀からは伝統的な家族の崩壊も見て取れる。最後まで佐竹が出てこない辺り、この映画の視点は娘の未来ではなく、過去に消えていく日本的なものへの寂しさに置かれていると思う。

ミシンや裁縫が示す母の目線。女中が座っている場所(彼女も裁縫をしている)がおそらく母のホームポジションだったのだろう。ミシンが画面に何度も映り込む。

父と向かい合って座る自宅のちゃぶ台で、紀子の背中を写し続ける不気味なショット。亡くなった母親が乗り移ったようでどこかアンバランスなのに、シーンとしては調和が取れている。

近親相姦的な関係を指摘する意見もあるようだが、個人的には大人になれない娘とその親という、割と普通な距離感に見えた。小さい子供もベッドで寝かせるのが普通な海外の人からしたら、宿のシーンは珍妙に見えるのかもしれない。

鎌倉の山で一本だけ抜き出た不自然な木は紀子だろうか。周囲をコンクリートで固められた東京の街路樹の孤独は、思いが届かなかった服部の心境か。京都の山は至って自然に輝いている。

東京の料亭では横並びの会話。自宅の二階は西洋的なライフスタイルがベースとなっており、椅子とテーブルが置かれ、父親がお茶を運んでくる。終盤、昔ながらの結婚観を持つ叔母(杉村春子)は西洋なんてお構いなしにこの部屋に乗り込み、紀子の意思を確認して一階に降りていく。

紀子が父の再婚話を叔母から初めて聞くシーンが圧巻だった。
和服姿で正座する叔母と、スカートで足を崩す紀子。正対せずに会話を始めるが、話に驚いた紀子は途中で画面奥の椅子に座りなおす。叔母と画面構成上は正対するものの、位置関係としては正対出来ておらず、紀子は叔母の提案を拒絶する。人物の立場や心境がアクションと連動している。

「我々だって育ったのをもらったんだから」。いずれも妻と死別した男2人が、受け継がれて来た時間を未来へ繋ごうとする。このセリフを龍安寺の石庭を前に言わせる決まりっぷり。88点。
Kuuta

Kuuta