レインウォッチャー

フルスタリョフ、車を!のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

フルスタリョフ、車を!(1998年製作の映画)
4.0
スターリン政権末期のソ連、その混沌と喘鳴。

スターリンの反ユダヤ主義施策の一つ、医師団陰謀事件を背景としている。ユダヤ人医師たちがテロを首謀したと捏造、実際に多数を検挙し、収容所に送り拷問した。デマだと発覚した後も、このとき撒かれた反ユダヤ思想の種は根強く残っているという。

しかし今作は、事件そのものを描くというよりは、当事者として巻き込まれた一人の男・軍医クレンツキー少将に密着するような形で、彼の周りに起きることを顕微鏡的視線で映してゆく。そして、その映し方はおそろしく奇妙だ。尋常な映画であれば、切り捨てるか背景として奥に追いやるような視覚的・聴覚的情報も、まるでどれもが等価のように眼前にせり出してくるのだ。

彼の家にしても職場にしても人や物で雑然とし、誰もが好き勝手にしゃべり、水や火や何かの破片が部屋を脅かして気が気ではなく落ち着かない。厳冬が室内をも蝕み寒々しい、光は光源がもやっとして、それを削り落としたような雪が窓の外では降りしきり、人々を閉じ込めている。
会話の行方も、そして次に扉の向こうに何が表れるのか、いま視えていない死角から何が飛んでくるのか、常にわからない。どこへ行けども癲狂院に居るようだ。

しかし不思議なことに、なかなかカットが切れないカメラに引きずられながら、長い長い廊下に落ちた巻物をくるくると回収していくようにずるずると、引き込まれて観続けてしまう。ファンタジーや夢に頼らず引き出された、確かに何か「力」としか呼びようのないものが、この映画には存在するのだ。

読解などというアプローチは追いつかず、ミクロのモンタージュによる怒涛で全体の「印象」が強烈に焼き付く。これがこの時代の行き場のない、それでいて焦燥に満ちた空気、風景なのか。肌で理解するような思いだ。
たとえば、学校で教えられる歴史の勉強で年号や人名をちまちま暗記したとして、その時代を知ったことにはならない。しかし、この作品は間違いなく海馬に火傷を伴った領土を占拠することだろう。

この映画に近い感覚を、わたしはひとつだけ知っている。それはフランク・ザッパの音楽だ。
多くの楽器がそれぞれの声部を独立して鳴らしているようで調和しているポリフォニー的な構造、急なリズムや場面の転換、そして忘れない猥雑なユーモア。

許されるのならば、「幸福だ」と言ってしまいたい。頭のカロリーをだいぶ持っていかれてしまうけれど、何度も反芻したい作品だ。

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キリル・セレブレンニコフ(『LETO』『インフル病みのペトロフ家』)の諸作は、確実に今作あるいはアレクセイ・ゲルマンの下地があったうえで、もっとポップに昇華したものだということがよくわかった。