せいか

ベニスに死すのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

ベニスに死す(1971年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

自分用メモ。ほぼ小説との比較感想。
ちなみに、最初から最後まで私個人の感想としてほ、小説のほうがはるかに完成されたものを感じた。それとは別にしたとしてこの映画は面白いとかそういうのも特にない(面白いポイントが全くないわけではないが)。
カンパリ(アペロール?)ソーダが飲みたくなってくる作品でもある。赤いイメージも重要なのだろうから用いられていたのだろうが。

8.28視聴。レンタルDVD。
原作小説既読。なんなら最近、この映画の視聴のためにも再読。
重い腰上げて観る気になったのは、推している配信者さんが映画と小説の話をされていたのと、音楽プレーヤーがなぜかマーラーの第五をひたすらなんてしてでも私に聴かせようとする謎の挙動を見せたのが同時期に起きたため、まあ何かの縁かと思ったのである。

画面の美しさがずっと続く映画。ほどよくクラシカルな色調にまとまり、黒が黒、白が白として存在している。
ただ、映像化すると死都ブリージュのごときベニスの街が映し出されるのかなと思っていたが、あまりそういう退廃的な砂上の、閉塞的な美までは感じられず。


小説よりも先に映画のほうで作品を知った口だが、それでも、こういう美少年が登場する作品であるというところから進まなかったため、作品内容そのものに触れたのは小説のほうが先になる。
あの至上の美を体現したような写真に心奪われ過ぎて(原作を読むと分かるが、あのよくでまわっている黒っぽいワンショットは原作のナルキッソスのシーンそのものを体現している凄みがある)、これはもう動いてるのを観るとむしろがっくりくるやつだと失礼千万なことを思いつつ恐れおののいて遠回しにしているうちにひどく長い歳月を経てしまった。あと、実際、やっぱり動いてるのを観ると、ワンショットを見たときの衝撃は一気に薄らいでしまいますね。美とはかくも難しい。
とはいえ、子供らしくはしゃいでるシーンだとか、母親に貝をプレゼントしてる時のはにかんでる感じのシーンはすごくナチュラルでかわいい。美の化身みたいな理想的なものは止め絵の中にしか存在しないけれど、そういう鋭さのない心に滑り込んでくる愛らしさは動いていないと出てこないというか、この役者さんの本質は後者にこそあるのだなあと思った。
そこから深読みすれば、主人公が求めた美というのは所詮は彼の自意識を通して映し出された理想でしかないのだということになるのかもしれないが。ただこういう解釈は原作にはぴったりでも、映画のほうだとそうではないんだよなあ。


閑話休題。
物語は主人公がベニスにやってくるところから始まる。水平線、続いて彼が乗る蒸気船。背後で流れるのは近代の理知の塊ともいえる西洋音楽=マーラーの第五である。小説ではここに至るまでにもいろいろ紆余曲折あるのだが、そこは大幅カット。船上で接触する若作りした気味の悪い老人の描写も、船を下りる時のやり取りのみ描かれる。カロンに仮託した舟のシーンなども必要最低限のみで構成され、そんな感じで、小説は下地に置いてこそいるがほぼほぼカットされながら繋がれている感じ。小説を読んでないと気にはならない程度だが、読んでると逆にやや目に付く。

主人公の設定も、小説ではあくまで、近代の知性の象徴、アポロン的なものに偏った芸術家(作家)という主人公の容姿がなんとなくマーラーを彷彿とさせるものだったりして、たぶんそこを汲んで本作でもいかにもマーラーみたいな見た目になってるのだろうが、主人公の設定もだいぶそちらに寄せている気がする。なんというか、オッス、オラ、マーラー!!!みたいな。主張が激しい。というか、小説から汲み取れたような彼自身の設定からは結構遠いキャラ付けになっている。小説家から音楽家になってもいるし(オッス!である……)。

作品の大枠は外れてはいないのだが(ベニスを死の都として描き展開するところとか)、砂時計の喩えであったり(完全に砂が落ちるころにならないと気にもとめないのだだとか)、芸術家と美の表現(美を創ることはできないのではないかという過去描写における対話)であったり、たぶんこれらの小説ではなかったはずの付け加えられているものから窺うに、方向性や印象は異なるもののほうへ進んでいる。個人的にはこのへん、小説のほうが好きである。なんであれ、映画のほうはやや分かりやすい形を取って、小説同様、自然が生み出した美に堕ちていくのですが。近代理性、人間が生み出した芸術を通して描かれようとする美の敗北と破滅はこうして双方等しく描かれてはいます。
あと、この映画は、原作が現実と並んでほとんど徹底してモノローグで処理されていたのとは違い、現実の描写に過去の描写が入れ替わり立ち替わり描かれ、過去において主人公がだれかと生命や芸術等々に関する対話を行う様子が描かれている。ほんとに原作とはほぼ別物と言える。

対話相手の友人の名はアルフレッドと呼ばれているが、こちらにも具体的に連想できるモデルはいるのかな? Alfred Roller?
とはいえ、どことなく主人公と対置された鏡みたいな人物として設定されているのだとは思う。もしくは完璧な理性を保とうとする彼を芸術をぶら下げて誑かす悪魔か。

過去描写にて。
友人「君の最大の誤りは 実社会を一つの障害と見なすことだ」
主人公「そうだ 我々を欺き 堕落させるのが現実だ 時々 こう思う 芸術家は暗黒の中で獲物を狙うハンターだ 何を狙うのかも分からん だが現実が それを照らすことは期待できない 美と純粋さの創造は精神的な行為だ」
「いや 違う 美は感覚だけに属するものだ 精神への到達」
「感覚を通しては絶対に不可能だ 感覚への完全な優位を保つことによってのみーー真の英知に到達できる さらに真理と人間的尊厳へも」
「英知? 人間的尊厳? それが何の役に立つ? 天才は天からの授かりものだ いや 違う 天与の狂気 自然が贈った罪深いひらめきだ」
「芸術を悪魔と同一視するのは反対だ」
「君は間違っている 邪悪は必要だ 天才の食糧だよ」
(中略)
主人公「アルフレッド 芸術は教育の最高要素だ 芸術家は手本であるべきだ バランスと力の象徴でなくてはいかん 曖昧は許されない」
友人「だが芸術は曖昧だ 特に音楽は芸術の中で最もその性格が強い それが自然科学をも作った(中略) 無限で多種多様だ その解釈の自由な天国で君は飛び跳ねている 子供のように」
上記のやり取りからも窺えるが、この映画の方向性はこういうもので、小説のほうも無論近代理性、知性は重要な立ち位置にあるのだが、似ているようで全然異なる描き方、立ち位置で描写されている。
小説では『饗宴』などを故意に引用、咀嚼する主人公の思考を通していろいろが語られるのだが、このへんも薄い。映画ではとにかく音楽に一点集中っていう感じでもある。繰り返すが、原作とはほぼ別物である。

エレベーターで乗り合わせた末に、下りたタッジオが振り返って、主人公がその笑みにナルシスを見いだすところも映画ではあくまでも淡白に描かれる(その割に、部屋に帰ったあとの主人公の逡巡はしっかり描く)。そこが小説でもものすごい吸引力を持つところだと思うのだが、なんだかやはりやや呆然とするところがある。
ちなみに映画では、このエレベーターのシーン以降も何度もタッジオと視線のやり取りがあってそれが何度も描写されてから、「そんな顔で笑うのはよせ」のセリフに至る。ここも内心描写はほぼなく、小説の本当に一部のみをすくい上げている。「そんな顔を他人に見せるな」「愛している」のみ言う。

タッジオがロシア人一行を疎ましげに睨む描写もたぶんなし。

友人「恥じてはない 恐怖だ 君に恥辱感などはない 感情がないからだ 人間嫌いの逃避者であり 傍観者だ 他人と接することを恐れている いじけた道徳観が完ぺきな作曲を妨げている 小さな過失も忌み嫌う」
主人公「私は汚れた」
「そうだ 官能に打ち負かされーー本当の汚れに身をさらせ それが芸術家の喜びだ 健康など まったく味気ないものだ 特に 魂の健康はね(中略)芸術は個人の道徳と無関係だ さもなければ君は最高の芸術家だ ところで君の芸術の根底には何がある?
 平凡さだ」
ここなども原作との相違が際立つが、個人的には刺さった。
とはいえ本当に小説でひたすら描かれていた哲学的なテーマの方向性とは違うんだよな。映画ではとことん破滅一辺倒なところがあるけれど、小説は、ディオニュソス的なものへと移り、他にも数々の死のモチーフに彩られながら死へと向かいながらも、同時にわずかな再生の光も物語の枠の外にはあったと思う。題材の取り入れかたと進め方がだいぶ異なるのもあるが、映画は小説よりこのへんに深みを感じにくい気がし続けていた。近代理性と芸術の論議に終始してしまっているというか。確かに方向性は同じところに向かっているのだが、雲泥の差があるというか。映画単体で観れば、単純に、おもしろいこと言ってるなあとか思えたんだろうけれども、美に取り付かれた狂気、愛に溺れる狂気がそれこそひどく平凡なものに、表層のところまで浮き上がってしまったものになっていると思う。

映画ではエレベーターのくだりからの展開で、一度主人公がベニスを去ろうとするのもかなり端的にまとめられており、官能に打ち負かされないための最後のあがきとしての特徴がわかりやすく表現されている(もちろん、気候の問題なども取り沙汰されてはいる)。

オープニングに引き続き、帰ろうとした汽車のところで手違いが発覚して即座にベニスに滞在することに心が移ったシーンでもマーラーの第五が流れる。彼が死に向かう(自然の創造した美に引き寄せられる)ことのあらわれ。
駅構内で今にも死に絶えそうな男が出てきて、このあとの疫病流行の予感が表現されてもいるが、上記と重ねた上でかなりあからさまではある。

全体的に主人公の語りがない中で小説に描かれたこと(端から見ればストーカー的な場面など)はやっていたりする。映像だけでも心情は汲めるとはいえ、なまじすでに読んでいるので、ちょっといちいち尻がムズムズはする。
映画ベニス、なんかたぶんそんな感じになってんだろうなとは思ってたけど、マジで、振り返ればやつがいる状態なので、少年からしたら気味悪いよなと思うのだった。そういう作品ではないしそういう解釈に寄る話でもないのだけれども(たどそういう解釈を汲む話ではある)。ンアー! この辺にも関係するけど、ベニスに来る船のシーンで、若作りした老人が若者の輪にまじっている歪さをカットした意味が分からないのよな。

伝染病を主人公が認知してホテル側と掛け合う描写も映画では唐突に起こる。これもあくまで映画だけ観る分には気にはならないのだろうが(小説ではものすごく紆余曲折していた)。
現地人に尋ねていくシーンも、分かっててあえて尋ねる意地の悪さがこちらには感じられない。このへんの街の気味悪さの印象も薄め。

タッジオのように覚束なくエリーゼのためにを弾く、なんとなくタッジオの面影のある若い女性の娼婦に手出しをしようとしたり、妻と娘との仲睦まじい記憶があったり、このへんもほんとに小説の方向性とは異なる。

再生時間も1時間20分を過ぎ、残すところ三分の一というところで「愛している」と主人公が自覚してからはひたすらあの町中でのストーカー描写になる。

疫病はびこる中での歪んだベニスの態度と何も知らずに楽しむ観光客たち、その極地である音楽隊の遊行公演シーンもあったが、映画版はなんだか彼らがひたすら空疎というか、客が楽しんでる感じゼロで、妙な空間になっていた。この折り合わなさが映画においてはポイントなのだろうが。

コレラの蔓延が明文化されるくだりもほぼ原作ママ。映画の主人公は明文化されるまで疫病を確信していないらしい(ここに至るまでの印象も異なる)。
それはともかく、観光で生活している街で(それ以外ほぼ無策で)、問題に対してほぼ無防備で、市民の生活もかなり逼迫しているのに観光客たちには笑顔を振りまきこれを引き止めるって、疫病関係なくキョートの人間としてはやはりグサグサと刺さるくだりであった。このベニス、キョートと姉妹都市組めるやんなと思ったが、ベニスは日本とは姉妹都市組んでないようだ。京都はフィレンツェと組んでいた。あら、そう……。

映画の主人公は、タッジオたちに知らせるかとか、自分はどうするかとかをマトモに逡巡していて、ここに至ってもまだまだ理性的なところがある。お前がいなくなるまで私もここに残る!という意志の強さありきの独白とかそんなのはない。ストーカー発揮してたけど、超マトモ。
このあとの観光客ご減っていくくどりも映画はカット。

幼い娘が死んでしまって棺が運ばれるくだりとかも間断の中であるけど、やはり蛇足的に見える。映画の彼にとっては人生の転換期の一つになってますが。

若作りしてストーカーを続け(明らかに少年は気付いているし警戒しているらしい素振りがある)、疲れきって街に座り込むシーンあり。
ただ、ここでまた過去の間断に入り、彼の音楽の挫折が露わになる。拍手で迎えられるが本人はその空疎さを悟り、友人が明文化。大衆はそれでも彼の作品の本質に気が付かずに追いかけ回す。映画だけ観てればなかなかぞっとするシーンである。ほんとに描きたいことは違うんだなと思うばかりだが。
友人は、このまま大衆に引き渡してしまおう、「もう君は自分の音楽と共に墓へ入れ」と語り、彼はうなされながら目覚める。
この映画においてはここが一番の肝なのだろう。取り繕って形をなすだけの近代的理性(「英知 真理 人間的尊厳ーー すべて終わりだ もう君は自分の音楽と一緒に墓へ入れ 君は完全なバランスを達成した 人間と芸術家は一つとなりーー 共に深い底へ沈んだ」)への皮肉なのである。そしてその表面を有り難がる大衆ども。そしてそのまま墓に入ってしまえと。
友人「君は純潔と無縁だった 純潔は努力で得られるものではない 君は老人だ グスタフ この世で老人ほど不純なものはない」

タッジオのプロレスも物語ラストで出る。主人公死にかけてアワアワするだけ。
そして一人浜辺の佇み海の中へと歩を進める彼をただ笑みを浮かべようとしながら眺め、どこかを指差す彼に手を差し伸べて死んでいく。若作りのための染髪材か溶けて汚らしく垂れるのも印象的である。そして死体はすぐに発見されて回収されていって終わる。
光に包まれて浜辺に立つタッジオのシーンは作中で一番原作を読んで想像した光景に近いものでもあった。
衰弱した主人公の所在なさげな雰囲気も印象的であった。

何はともあれ、やっぱり小説のほうが好きだわと思いながら最後まで観た作品であった。なんか中途半端なのよな。

タッジオからしたらこの死の都でどこにいても見つめてくる目がある初老(?)男性たる主人公こそ死の化身みたいなもんなんだよな。そして彼から見たときのほうがそれこそ破滅的な死のイメージしかないわけで。映画のほうはそれこそバチバチ目が合ったり、タッジオがなんども振り返る素振りがあったり。
せいか

せいか