るるびっち

群衆のるるびっちのレビュー・感想・評価

群衆(1941年製作の映画)
4.2
フランク・キャプラってワンパターン!!
と、思ったら実は微妙に違っていたりする。
本作も他のキャプラ映画同様、お人好しの善人が資本家や政治家に騙され利用され全てを失い、そして命がけで何かを訴える。それが人々の心に伝わる。人々は彼を通じて見失った尊いものを取り戻す。
という、いつものノリだと思っていた。
見直してみて、ちょっと違うと感じた。

そもそも主人公は善人ではない。
『スミス都へ行く』のスミスも『オペラハット』ディーズも、変人だが基本的には善人で熱血漢だ。
しかし本作では、インチキプロパガンダと承知で金のため引き受ける打算的人物であり、根っからの善人ではない。
勝手な想像だが、単純な理想主義で現実や世間はキャプラ映画ほど能天気ではないという批判への答えとして、本作を創ったのではないだろうか?

だからこそ、ワザと構造が『オペラハット』と似ているのではないか。
決してワンパターンしか出来ないからではない。
サイレント時代からの老練作家が、手数が少ないハズがないのだ。

でっち上げの新聞記事から生まれた人物が、民衆のヒーローになる。正に瓢箪から駒。嘘から出たまことである。
主人公は金欲しさに、でっち上げ話に乗っかった。
しかしそれが後半、彼自身の首を絞めることになる。
ヒーローを演じる内に、応援する市民たちのキラキラした目や希望に満ちた表情に吊られ、本当のヒーローとしての自覚が芽生えていく。
すると、自分を操っている政治家の腐敗が見えてくる。
大衆のために政治家を裏切る。敵はうわ手で彼がインチキだと暴露する。
元々金目当ての行いなので否定できない。
今は真剣なんだと言ったところで通用しない。
他のキャプラ映画では味方だった民衆が、彼を非難する。
大衆は簡単に扇動されてしまう。
キャプラ映画では常に敵役は政治家・資本家だ。
貧しい庶民や大衆は常に主人公の味方だし、主人公も大衆のひとりだ。
だが、本作ではその大衆・市民たちが主人公に牙を剥くのである。
これは辛い。

キャプラスク(キャプラ様式)が、理想主義を謳った甘い映画という批判がある。
そう感じるのは、追い詰められた主人公の逆転勝利が、浅いと思われているからだろう。
あそこまで危機に追い詰められて、そんな簡単に逆転できないだろう。
という印象が残るのだ。
その最たる見本が本作だろう。
だが、逆に言うとそれだけ容赦なく主人公を追い詰めることがキャプラはできるのだ。
それ程、厳しい現実を彼は描けるのである。
キャプラは、厳しい現実を知らない呑気者ではない。
むしろ知っているからこそ、映画の中ではハッピーエンドを描いたのだろう。

SNSの誹謗中傷で自殺した木村花さん。
『テラスハウス』という番組に出ていた。
好きで見ているTV番組のはずなのに、その出演者を追い詰める視聴者たち。
本作の主人公を勝手に応援し、裏切られたと自殺に追い込む群衆。
キリストはユダヤ人の救世主であったが、彼の処刑を望んだのはユダヤ人自身だった。
自分を救うべき者を死に追いやる、救われない「群衆」という存在。
甘いどころか、厳しい問いかけをしているとは思わないだろうか?
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