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続・世界残酷物語のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

続・世界残酷物語(1963年製作の映画)
3.2

このレビューはネタバレを含みます

 エブリシング・エブリウェア・オール”バッドシングス”映画のvol.2。まずはちょっとwikiから概要の引用をしたい。
「製作当時ヤコペッティは交通事故のため入院しており、プロスペリが、前作で未使用のヤコペッティによるストックフィルムと、プロスペリ自身による新撮部分を組み合わせて編集した。この経緯のためヤコペッティは製作にはほとんど関与していないとされる。」
 いやぁ、ただでさえまがい物映画の残りのフィルムと、共同監督であるプロスペリによるさらなるフェイクって、もうジャンク映画にも程がある。前回使われなかっただけあってなかなか際どい映像が多い。あと、「なにそれ?」みたいなやらせも多い。フェリーニが自身を大嘘つきと自称していたが、ヤコペッティに比べたら全然マシだ(イタリア人嘘つき多い?)。

 あまりにも近眼的な語り口。それはもちろんカメラワークからもナレーションからも滲み出ている。当事者ぐらいの立ち位置から、周囲をジロジロと舐め回す忙しないカメラワークで、皮肉たっぷりに嘯く。野次馬根性のくせに俯瞰してニヒルな口調で説教がましい。キーー!耐えれん笑。あのズームの、なんでも暴こうとする視線の暴力性も凄まじい。スピルバーグの映画の加害性なんてもはや問題でさえなかったのではと思ってしまう、今作に比べたら(調べたら前作で出たイヴ・クラインは試写で自身の描かれ方に激昂し、心臓発作で亡くなったとか。映画、人を殺します)。ニヒリズムについていつも思うが、虚無主義という言葉自体に矛盾を感じるというか。この世を虚無だと言ってのける時点で、発言する自身の主体の存在を認めることになる。本当の虚無主義とはおそらく虚無を受け入れることだと思う、それは禅僧とかの方がよっぽど近い。ものごとをニヒルに語ることは否定主義と言った方がいい。今作の、とことん否定主義として世界は奇異だと言い回って耳目を集めるは、狼少年のような姑息さでため息が出る。前作はやらせ映画爆誕としてある意味で記念碑的だったが、今作は二番煎じだし全く懲りてないところ腹立つ…。

 南ベトナムでの反体制運動、あれは本当か?嘘だとしたら酷い、暴力を演出して、しかも異国を野蛮な地のように演出したと思うとその厚顔無恥っぷりにムカつく(そうじゃないとしても、人の顔にこれでもかと寄るカメラワーク腹立つ)。と思えば、あの焼身自殺は確実に本物だ。とはいえ、フェイクと混在した今作においてもはやその焼身自殺の意義は無意味と化している。ちなみに、誤解されているが焼身自殺しているのはティック・クアン・ドックではなく、その弟子のチン・ティエン・ディエンらしい。ほら、もう誤解を招いているではないか、なんならフェイクとさえ言われている。あとは、黒人の子供たちが物乞いするに相応しい障害を負わされる映像も胸痛い、しかしフェイクと並列されることで彼らの痛みは薄められている、そのことが腹たつ…。

 ホラー小説の表紙撮影現場、あれたぶんフェイクだが、あの色彩と女性のキッチュさが個人的には好き。ヤコペッティ、フィクションで撮った「ヤコペッティの大残酷」というのがあるが、あっちの方がオモロくて、今作も圧倒的にフィクションの方が面白かった。ラストのビンタ演奏会とか。ただ、ビンタが痛そうでそういうところ変に力んで演出してんのバカだなぁ…。って言うけどこれら演出もどこまでがヤコペッティが関与してるかがわからない。思えば、映画なんてどこまで誰が手がけたなんて観ただけじゃ全くわからない。え、烏滸がましいのは自分の方なのか?

 思えば、インスタのリールを眺めてるみたいな映画だったな。バズり目的に目を引くために回されるカメラ、しかし、それを回してしまう倫理観を問う者はもう既にこの世にほとんどいない。そこにリアルかフェイクかを問う者もいない。映像の倫理観みんなヤコペッティか!←流行る
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