しゃりあ

横道世之介のしゃりあのレビュー・感想・評価

横道世之介(2013年製作の映画)
4.4
絶対に知り合うことのない他人の人生を観る、という一種の"覗き"としての映画要素は、観客と役者ないしは登場人物との間にある一定の距離感を担保してくれる

中盤、ラジオで流れる"あるニュース"は美談であり、またショッキングでもある
例えば私がその関係者だったとして、冷静なままにニュースを聞いていることはできないだろう
対して、全くの赤の他人だった場合、つまり普通にラジオを流していて、あのニュースが耳に入ってきても、CMよりも自然に聞き流してしまうのではないだろうか

前述の映画機構は、そのような冷めた、あるいは火照りすぎる距離感とは異なる位相を与えてくれる
映画内で横道世之介を思い出す人々は、熱に浮かされるでもどうでも良い態度を取るのでもなく、しんみりとじんわりと彼のことを思い出すが、この映画特有の機能が彼を知らないはずの私たちにも、登場人物と同じ距離感と温度感を以って彼に想いを巡らせる機会をもたらすのだ


映画内テンポもさながら、そうした"観客との距離感の取り方"がかなり上手い
ドラマチックに演出しすぎないという意図もあるだろうが、描く部分の取捨選択、もっと言えば描かない部分の演出が良い

それは後半になるほど顕著だ
例を挙げれば、与謝野祥子との初夜や直接的な別れの原因、魅入っていた写真などを映さないこと、例に挙げたニュースの直接的な描写などだが、これは"他人の話"であるドラマ部分を極力減らすことにより、観客が自分の記憶と"他人であるはずの世之介"を重ね合わせる余地を作り出している

いしわたり淳治の作詞技術の話で、"聞き手の参加意識"を煽れる歌詞こそが至高だといった趣旨の話があったが、そのコツは想像と余白にあるらしい
"他人の話"を自分に引き寄せて解釈するためには、強い共感(同様の体験による同一化)があるか、想像の余地を挟めるだけの余白がなければできない

紛れもなく他人の話でしかないのに、観客が第三者化せずに観られるということは、没入感が増すということだ
世之介≠私という方程式を前提に描かれることで、アパートの二つ隣のおばさんによる「成長したね」という言葉に、私たち観客は他人のことを他人のことのまま喜んでしまう

"他人のことを考える私"(世之介の友人たち)は主人公ではない
この映画の主人公は、あくまで"他人に考えられる彼"である
しかし、このままでは三人称的でしかないところを、前述の適切な距離感と没入感によって、「他人の人生をボリュームをもって捉えながら、他人に想いを巡らせること」という映画を巧みに作り出すことに成功しているのである

おそらくこの構造自体はこの映画に限ったことでなく、『他人のセックスを笑うな』とか『嫌われ松子の一生』とかもそのケがあると思うが、別格に上手くやれているような気がする

特にエピソード的に印象深くエモーショナルな展開はなく、言ってしまえば主義主張もあまりない映画だけれど、
それでも折に触れて観返したくなるような映画なのは、やはりこの邦画らしい映画の力と、それが作り出す意味性のためであり、それを観て想う「質量を持った他人」、その存在自体が紛れもなく人生を豊潤にするモノだからなのだろう