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娘船頭さんのotomisanのレビュー・感想・評価

娘船頭さん(1955年製作の映画)
4.0
 美空ひばりがひばり・ひばりしていない感じでいい。それは爺ちゃんの言いつけ通り、潮来の村に馴染んだ暮らしを通しているから、という事なのだが、きっと心の底には別の自分が別の事を考えていたのだろう。だから、意気地なし兄ちゃんが東京、東京と愚図吐いているのを見ると堪らなくなる。
 兄の背中を押して東京に出すと兄の代わりに船頭になるし、兄が東京で怪我したと聞けば漁師にもなって爺ちゃんとの暮らしと一人立ち不能の兄を支える。そんな美空光子だがひとつだけ潮来に馴染めない事があって、豈はからんや、それが好きな歌で身を立てるという事で、それは潮来では先ず芸者になるという事でもある。
 潮来と言えば鹿島と香取の宮に挟まれた都郊の行楽地、ここの芸者になって芸が見込まれれば、すなわち東京でのデビューも夢じゃあるまい。それが光子の美空ひばり化の道なら、旅館の女将をはじめとする周囲の思惑に戸惑う事も光子が自身の歌う事を「芸」とは認識していないという事でもあろう。芸ではないから歌うのはいつも我一人を相手か労働歌、さもなくば子どもたちと唱和するばかりだ。
 兄を東京に遣り、爺ちゃんのこころを挫き死期を早めてしまった事に気付かない光子ではあるまい。矢折れ力尽きた格好の光子だが、それでも自分の歌を芸としてレコードにラジオ、テレビと複製販売し大儲けに走るだろうか。兄が埋もれて消えた東京をこころの隅に置いて女船頭の道に閉じこもる未来を風物うらぶれた村落潮来の落日が念押しするような、ひばりの反ひばり的人生シミュレーションであった。
 それでいいのか?では復興から成長に転じた東京がよっぽどいいのか?監督は兄の身の上と画学生の疑問、両親の末期と爺ちゃんの述懐を示して、光子の岐路にともに立って我が事を問え、と促すような積りだったと思う。
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