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明日はどっちだのニューランドのレビュー・感想・評価

明日はどっちだ(1953年製作の映画)
3.7
 この作品を以前観たのは、五所の特集かなんかだったろうか。とにかく、シュルリアリストの側面を持ち、名だたる名作、というより突出屹立作の脚本を多く手掛けた人だ。自ら演出にあたるとどういう作品になるか、当然興味を持ってたので、飛びついた。満足というより、唸るという感銘は今回も同じだ。少なくとも、真っ昼間群衆の中の殺人からの、ミステリーや犯罪撲滅ものとして一般的な期待に対して体を成してない、また、スターの打出しやそれに伴う周り馴合い納得の至福感はない。これでは、ヒットや次回作への期待を煽る事は出来ない。プログラムピクチャーや異色作畑を任せる事は、企業としては躊躇するだろう。当時活況の映画界とはいえ、独立プロでも連作は難しい。仮にに監督業が続けられた場合断言できるのは、彼が脚本を提供した名匠らの中で、少なく崑や篠田よりは、上位に届いたろうと言う事だ。一般的オシャレ感覚に倣った崑らに対し、ここには消化し難い得難い個性の塊りらが、タッチ·キャラ·生活感覚に押しあってる。崑や篠田の作には偏愛することはないだろうが、この作品はそれに値する、スペシャルな物だ。
 映画作家的な確たるスタイル·絞り込みと無縁だ。パースペクティブのいい図も来るが、切返し·角度やサイズ変が、速度タイミングや角度バランスを抜きに、時に何だか分からない図やカッティング迄も普通に·辺り構わず·独自に割りながらすすんでく。一方で裏や寄りの汎ゆる視覚を収めてもきてる。ゆっくりした風情だけの前後や斜め下らのと·急に車窓等となって揺れ速く動き出す、カメラ移動の無規則入り込みも、極まらない。手元の物·身体部位や正面表情の·CUの前触れない介入·振向きも分断し·流れを対置化してく。音楽や音響も効果というよりノイズ·存在の確証の為に、流れに水をかけるように被ってゆく。何より、環境や馴れ合いに属す、自信や安心が裏付けた行為·反応をキャラたちは持ち得ず、不安と新鮮を日常としている。信念も経験値も、歳の如何に関わらず誰も持っていない。見慣れたドラマが、成り立たない。
 世代差·時代·環境による情熱の喪失·怠惰·疲労感、麻薬とその中毒からの犯罪の促しも·良心や魂よりもカネ·生活の重み、ずっと秘めてきた想いの吐露は·不意の事件の介入や相手の疲労意識喪失で遮られる。それらの繋がらない分断が支配する世に対し、新しい歩みに外面だけしか移行出来なくなるジレンマ。係る直接的な事件を越えて、それらの元の時代の‘共犯’者意識を持ち合うことで、足もとや理想に掬われない、ユーモアが関係性を越えて出てくるかも分からないのが、見えてくるかと·ほぞを噛みつつ結論づけてく。
 汎ゆる役者が、型に嵌らず、望む事を遂げられない、初々しい横路への足の踏み入れを見せ続け、表向きの平安に従うにみせて、内面が違う軌跡を示して、新鮮と不安澱みを保つ(中心は香川)。球場での殺人事件を探る若手新聞記者に、偶然現場に知り合いがそのまた馴染みの不穏見かけがあり、2人で探りいれ道中·引退上司の娘との恋のうねりの進行も同時に。待合や、被害者絡み麻薬組織突き止め、謎解きは調子良くも、一般映画的進行としては脆弱でいい作、気にならない。吐露の届き合わない、塊り埋め尽くしが、浮き渡ってゆくのだから。
 もし長谷部が演出業続けてたら、どんな新鮮でラジカルなトメや志乃を見れたことだろうか。
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