脳内金魚

真実の行方の脳内金魚のネタバレレビュー・内容・結末

真実の行方(1996年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

原作未読。

最初、「気弱そうな男の子」に加え、「年齢制限を超えても救済院におかせてくれる」「ときどき記憶がない」に「神父」と来た段階で、神父に性的虐待を受けた二重(多重)人格者による殺人と読めてしまった。この点は、正直2023年を生きる自分だからこそ、読めてしまったのだと思う。この辺は、ダニエル・キイス著『ビリー・ミリガン』シリーズや、カトリック神父の児童への性的虐待が明るみになった昨今だからこそだろうなと思った。
この映画が製作されたのが1996年、「24人のビリー・ミリガン」の発行が1981年、ボストン・グローブ紙の記事(映画『スポットライト』の元ネタ)の連載が2002年と重ね合わせると、この当時ではなかなか斬新かつ衝撃的な内容だったのではないだろうか。
そんなわけで、アーロンが二重人格と判明し、彼と友人らのセックステープが見つかった段階で先がある程度読めてしまったので、正直この段階では「外れかな」と思っていた。

だが、その後公判の途中から心神喪失による無罪とは出来ない(前提として、被告人には責任能力がある=心神喪失ではない、として裁判が開かれたから?)ために、陪審員の被告人への印象を覆すべくあらゆる策略を巡らすのが法廷劇として面白い。
陪審制では、陪審員だけで有罪無罪を決めることをから、検察側と弁護側がそれぞれあらゆる手を使って印象操作をするのが興味深い。このあたり、ときに見てると屁理屈のようだが、結局如何に「素人を丸め込むか」とも言える。と同時に、リーガルムービーとしては、如何に観客をも丸め込むこむかでもある。一見ミステリーものとしては犯人が判明した時点で執着してしまったのを、ここからは法廷劇として展開し、観客に新たな刺激を与える構成が巧みだ。その上で、あのラスト。気付けばマーティンに同化し、悔しさ、そら恐ろしさ、絶望を感じた自分がいた。(陪審制に関しては、『12人の怒れる男』『評決のとき』『スリーパーズ』なんかを見るといいかも)

リチャード・ギア。ラブコメの印象が強く、その風貌も相俟って、一見すると功名心だけで弁護する軽薄そうな弁護士に見えるのに、実は秘めた熱情がある弁護士役がとても似合う。見た目のよさを言い意味で裏切って、人間ドラマもうまいという点では、トム・クルーズと似ているかも。

惜しむらくは、わたしには現代の『Primal Fear』が何を指すのかが分からないこと。


と、ここまでが初見時の感想。
初見時は「アーロン」が主人格と思っていたら「ロイ」が主人格だったと解釈したのだが、改めて見返すと、実はもっと単純にそもそも多重人格が詐病だったと言うことでいいのか。「アーロンとロイ どっちに話させようか」とあるのは、実は第三の人格がいると言うことではないよね?
けれど、逮捕時に名前がアーロン・スタンプラーとされている。では生来も公的にもアーロンが元の人格で、やはりロイは交代人格なのだろうか。それとも、アーロンが元浮浪児だったことを考えると、大司教に拾われたときには公的に身分を証明するものがなかった。それを逆手に取り、主人格はロイだが、大司教にはアーロンと名乗ったのか?
詐病と言うことなら(と言うか、これが正解だよね?)、ロイはこれら全てを計画していたことになるし、マーティンの法廷戦略も理解し振る舞っていたことになり、ロイはすごく賢い(cleverでありsmartでもある)し、マーティンが正義感溢れる弁護士なだけに、全ての真相が明らかになるラスト、ロイの酷薄さがより際立つ。

いずれにせよ、ほぼ法廷と事務所が舞台の地味な映画ながら、内容はとても構成の巧みで見ごたえのある映画だった。
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