デニロ

伊豆の踊子のデニロのレビュー・感想・評価

伊豆の踊子(1967年製作の映画)
3.5
1967年製作公開。原作川端康成。脚色井手俊郎、恩地日出夫。監督、恩地日出夫。

タイトルロールに酒井和歌子の名前があったのでいつ出て来るんだろうと目を凝らしていたんですが。

天城の山は10代の終わりの頃、というより読売ジャイアンツがV10を逃した日に歩きました。道中はほとんど記憶にないけれど、木々の緑の中にところどころ清流が見えてこころが静まり返るようだった。抑えられぬパッションを何かにぶつけたかった日々。それが何かもよく分からぬし、何をどうしたらよいのかもわからなかった。まるで一高の学生さんの様じゃありませんか。でも、彼はいいところの坊ちゃんの様で路銀もふんだんに持っていましたが、わたしは帰りの交通費しかもっていなかった。で、秋の山の日は釣瓶落とし、早くてあっという間に薄暗くなる。ん、マズい。道が分からない。どんどん暗くなっていくけれどバス停への道はとんと分からない。

そんな遠い記憶を思い返しながら画面を見つめておりました。

伊豆へ一人旅にでた青年が、旅芸人の一行と道連れになり、純粋無垢な踊子の少女に心惹かれていく──。恩地日出夫監督、内藤洋子の組みあわせで、何度もリメイクされた川端文学に挑む。最高に可憐なヒロイン薫の誕生。/ラピュタ阿佐ヶ谷のチラシより

わたしの天城山では純粋無垢の踊子の少女などとは行き交うこともなくさみしいものでしたが、本作の一高生黒沢年男は内藤洋子という少女に惹かれていく。いやもう、この時点で気持ちが悪い。二十歳の成年と16歳の少女、黒沢年男が内藤洋子に恋情を募らせるというところに、もはやわたしの生理が受け付けない。踊子が、時には娼婦のようなこともする、と聞くや、少女の一挙手一投足に気持ちと裏腹な憎悪を抱く。観ているのもつらくなるのは、少女を性の対象としている彼自身の葛藤におよそ共感できかねるからだ。お決まりの露天風呂。学生が少女に全裸で呼びかけられるシーン、彼女の兄から、こどもなんですよと呼びかけられて安心するかのようにふと我に返る黒沢年男に対する演出は、川端康成に対する批評だろうか。

そんなふたりの物語にも少女のこの先の扱いを残酷に描いているし、それを補強する形で、二木てるみの肺病の幼い娼婦や、男と駆け落ちしたのかと思っていたらまんまと男に騙されて東京に売り飛ばされた酒井和歌子や、幾度も流産している実の兄嫁を配している。踊子たちを束ねる乙羽信子の無情とも思える采配は、人は道を歩くのではなく人の上を歩くのだという諦観が滲み出ていて、その時点で、本作は黒沢年男と内藤洋子の物語ではないと知る。黒沢年男は別れを泣きの涙で迎えるが、内藤洋子はもはやこの先はひとりなのだと決然とした眼差しで”踊子”となることを受け入れるのです。

あ、隧道を抜けるとそこにバス停があって、すぐにあらわれたバスのヘッドライトにこころが落ち着いたのでした。

ラピュタ阿佐ヶ谷 Laputa Asagaya 25th anniversary ニュープリント大作戦!にて
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