小径

奇跡の海の小径のレビュー・感想・評価

奇跡の海(1996年製作の映画)
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外の者である彼と結ばれることで得られるもの。
それは音楽だと冒頭で語られる。
ここでいう音楽とは、性の喜びを暗喩するものだと思う。鐘の音が取り戻される時、彼女の復活を通して、性の賛美が行われる。そして性が結ばれる喜びはほとんど奇跡に近いほど瞬間的なもの、変えがたく奇跡的に美しいもの。
また、彼女の起こす奇跡は宗教としての奇跡に他ならない。愛、性と宗教との重なり。

迫害、処刑、復活、そして伝道…キリストの歩を彷彿とさせる描写が多くある。章の区切り方も聖書のよう。キリストは禁欲によって、愛を実践する一方で彼女は一貫して快楽主義の姿勢だけれど、その根っこにあるものは愛を諦めずに信じること。どちらも愛の姿に変わりない。快楽を制することも、求めることも、愛の変え難い瞬間に対して、永遠に続くような孤独だ。そしてユダヤのキリストが人々の罪を一身に背負うように、彼女も性の喜びも、痛みも一身に、究極的に背負う。非常にシンボル的な存在として描かれる。

彼女は愛の神の預言者として、神とひとつになって奇跡を起こした。その本質は捉えられないが、確かに二つは同質のものだと思う。

彼女の行為と夫の治癒が関係しているなんて馬鹿げているように思える。勘違いだと。
それでも勘違いだとわかりながら、身体は関連性によって、世界につなぎ止められることを望んでいる。それが絶望でも希望でも、何かしらの意味が自分の身にもたらされるよう身体は拾い上げる。私の身体の世界を越える真実に意味はあるだろうか。愛の奇跡を信じる、信仰が真実になる瞬間を信じることで、見えるものがある。それが物理的に虚構であっても、多くが信じることでそれはいつかもたらされる。資本主義やお金と原理として同じように。信じることを信じる。

とりわけ性というのは私と不可分で、永遠に逃れられない概念ゆえに、その宿命はあらゆる次元で私たちの身体に根付き、その傷の連帯は愛の宗教を生む。目指すべき瞬間は、奇跡のように滅多に起こらず、奇跡のように美しい。奇跡を信じるということ。

溢れんばかりの感情を湛えた表情が本当に美しくて、尊いものだった。思いがけず、ぽろりとこぼれる表情が素晴らしく愛しくて、痛切で。奇跡的な描写でした。奇跡のような瞬間信じたいと思わせてくれる映画そのものでした。
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