映画

処女の泉の映画のレビュー・感想・評価

処女の泉(1960年製作の映画)
-
・あらすじ
 中世のスウェーデン。裕福な地主テーレとその妻メレータ、彼らの一人娘であるカリーンの一家は敬虔なキリスト教徒。しかし、養女であるインゲリは異教の神オーディンを信奉し、カリーンを呪う。
 ある日、カリーンは教会に向かう途中、三人の羊飼いの兄弟に遭遇して、犯され、殺される。父親のテーレは、復讐の怒りに燃え、羊飼いの兄弟たちを殺す。しかし、テーレは激情に狂って、罪のない末弟まで殺してしまう。テーレは娘の死と彼自身の冷酷な復讐を看過した神を糾弾する。神の無慈悲に絶望しながらも、それでもなお神の救済を求めるテーレは、教会を建設することを約束する。テーレとメレータが娘の亡骸を抱きかかえたその時、彼女が横たわっていた場所から泉が湧き出してくる。神の恩寵を目の当たりにした一行は、跪いて神に祈りを捧げるのだった。
(Wikipediaより抜粋)

一説には、北欧神話の主神オーディンの語源は、「狂気、激怒の主」。処女の泉も「ミーミルの泉」がモチーフか。
『第七の封印』『冬の光』のように、神の存在を主題にした作品になっている。

インゲリ役、グンネル・リンドブロムの演技は迫力がある。「来い、オーディンよ!」と叫ぶときの強烈な呪詛。蛙をパンに挟むという復讐の陰湿な雰囲気。

本作品は、基本的には二つの復讐が軸になっている。不幸なインゲリの幸福なカーリンに対する復讐、娘を亡くした父親の強姦殺人者に対する復讐。そして、広い視野で眺めるならば、羊飼いたちの強姦殺人も一種の社会的な復讐である。人間たちの苛烈な復讐が渦巻きながら、神は黙っている。何故。本当に神は我々を救ってくださるのか。答えはわからない。神の沈黙に耐えながら、悲劇を繰り返す人間たちの姿には、なにか心寂しいものがある。
映画

映画