とうがらし

奇跡の人のとうがらしのネタバレレビュー・内容・結末

奇跡の人(1962年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

1962年サン・セバスティアン国際映画祭 主演女優賞、OCIC(カトリック映画賞)賞 受賞
1963年米国アカデミー賞 主演女優賞、助演女優賞 受賞
1963年英国アカデミー賞 国外女優賞 受賞

ヘレン・ケラーと出会って最初の2週間。
家庭教師アニー・サリヴァンの奮闘記。

サリヴァンの記録を基にした、ウィリアム・ギブソンの戯曲の映画化。
「俺たちに明日はない」のアーサー・ペン監督作品。
涙なしには観られない。
個人的には「聲の形」(山田尚子監督)と双璧をなす傑作。

奇跡の人とは、ヘレン・ケラーのことではなく、ヘレンと徹底的に向き合ったサリヴァン先生のことを指す。
ヘレンは、見えない、聞こえない、話せない三重苦の少女。
サリヴァンは、視力を失う経験し、9度の手術で視力を取り戻したが、光を避けてサングラスをかけている。
盲ろう者の暗闇を知るサリヴァンは、ヘレンの気持ちの一端が痛いほど分かるが、ヘレンとなかなか心が通じ合えない。

お転婆で暴力娘のヘレン。
サリヴァンは家庭教師に来て早々、わずか10分もしないうちに、ヘレンに殴られ、歯が欠けて、部屋に閉じ込められる。
部屋から出るのに、窓からハシゴで降りる羽目に。
ヘレンは、部屋の鍵を井戸に捨てる。
なんという最低で最高の出会い。

ヘレンの父親アーサー・ケラーは、アメリカ南部(アラバマ州)の大地主で、南北戦争時には、南軍の大尉だった。
サリヴァンは、アーサーから偏見を持たれる。
大学を出たばかりの目の不自由なヤンキーだと。
ヤンキーは、北部人に対する蔑称が語源。
ヘレンとサリヴァンの格闘を描いた本作は、アメリカの南部と北部の地域間対立でもあり、宗教と教育、家庭と社会の影でもある。
それら全てに共通する「分かり合えない」を越えて、人間の普遍的なテーマが物語の核。

ここで象徴的に用いられるのが、「窓」からの交流。
「窓」は、孤独感や社会の障壁(偏見や差別)に阻まれるコミュニケーション不全のメタファー。
例えば、ルイス・ブニュエル監督の「ナサリン」では、教会を持たないナサリン神父の安アパートを、人々は窓から出入りする。
フェデリコ・フェリーニ監督の「カビリアの夜」では、バッグを盗まれた娼婦カビリアが鍵を無くして、自分の家にドラム缶で窓から入る様子が描かれている。
そこには宗教的な意味が含まれており、本作も「窓」に同様のメタファーがあることは間違いない。
ゆえに、窓からハシゴで降りるエピソードは、本作の導入部として大変重要な意味を成す。

教えるより哀れむ方が簡単。

家族に甘やかされて育った、ヘレンの横暴な振る舞いを許さないサリヴァン。
ヘレンとの意思疎通を図ろうとする格闘の日々が凄まじい。
特に、食事シーン。
手で食べて、本能のままに生きるヘレン。
スプーンを使って食べさせて、理性を宿そうとするサリヴァン。
どちらも強烈に頑固者。
戯曲を原作にしたフィクションにもかかわらず、あまりに壮絶すぎて、もはやドキュメンタリーに片足突っ込んでいるように見えてくる。
でも、「人生は近くで見ると悲劇だが…」のコメディ論理で、笑えてしまうから映画は面白い。

予告編
https://www.youtube.com/watch?v=OffvfxvcSFc

なお、ヘレン役を演じて、アカデミー助演女優賞を受賞した16歳のパティ・デュークは、17年後のリメイク版ではサリヴァン先生役を演じている。
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