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ビューティフル・マインドのkuuのレビュー・感想・評価

ビューティフル・マインド(2001年製作の映画)
3.8
『ビューティフル・マインド』  
原題 A Beautiful Mind.
製作年 2001年。上映時間 136分。
ノーベル経済学賞を受賞した実在の数学者ジョン・ナッシュの半生を、名匠ロン・ハワードがメガホン、ラッセル・クロウ主演で映画化した。
天才数学者の苦悩と彼を支え続ける妻の愛を描くヒューマンドラマ。 
ジェニファー・コネリーが妻アリシアを好演。

1947年、プリンストン大学院の数学科に入学したナッシュは、周囲から変人扱いされながらも研究に没頭する。
やがて画期的な『ゲーム理論』を発見した彼は、その功績を認められマサチューセッツ工科大学の研究所に採用される。 
愛する女性アリシアとも出会い幸せな日々を過ごすナッシュだったが、国防省の諜報員パーチャーからソ連の暗号解読という極秘任務を受け、そのプレッシャーにより次第に精神のバランスを崩していく。

人は、日々の生活の中で、意識するしないにかかわらず、それぞれのやり方で、自分の存在を現実として知っているもの、つまり、自分が認識し、理解し、信頼している具体的で実質的な現実に適合している。
そして、その現実を証明するのが、人間の感覚です。
目に見えれば、それを信じることができる。
そして、信じるにはそれなりの理由がある。
そして、それには十分な理由がある。
しかし、ある人にとっての現実が、別の人にとっての現実とは限らない。 
なぜなら、ある人の現実てのは、自分の心の境界の中にしか存在しない場合があり、それは、多くの人が不可思議なモンとして考えているような影の街です。
ただこの場所は、『トワイライト・ゾーン』、日本で云うならタモリをストーリーテラーとしてオムニバス形式の物語を繋ぐ『世にも奇妙な物語』などの創作ではなく、統合失調症患者の心の中に、個人によってパラメータを設定した上で存在する、非常にリアルな場所です。
ラッセル・クロウ主演の今作品では、ロン・ハワード監督が視聴者をその場所に連れていってくれる。
ラッセル・クロウは、40年代後半からマサチューセッツ工科大学やプリンストン大学といった知の拠点に足跡を残してきた天才数学者ジョン・ナッシュを演じる。
彼の『ナッシュ均衡』は、非協力ゲーム理論においておそらくこれまでに考えられた最も重要なアイデアで、均衡戦略は人間について予測されるものです。
しかし、ナッシュの人生は決して楽なものではないことを今作品は、『ナッシュ均衡』云々をしらなくても巧く表現されていた。
ロン・ハワードが監督として成功した理由のひとつは、彼が人間の本質を理解し、その洞察を観客に伝える能力を持っていることにあると思う。
彼は、登場人物の心の奥底にある感情を、観客が共感できるような形で表現する方法を知っていると云える。
そして、今作品も例外ではなく、ジョン・ナッシュの物語を映し出すにあたり、彼は病気よりもむしろその人物に焦点を当て、それがこのドラマを魅力的なものにしている。
統合失調症の身体的な恐怖を垣間見ることができる一方で、ナッシュや彼に近しい人たちが受けた破壊的で衰弱した影響を目の当たりにすることで、今作品は感情的になっていく。
ハワード監督は、今作品を単なる学術的なケーススタディではなく、一人の人間の人生を扱っているし物語としては分かりやすいり
重要なのはこの物語の人間性って書いても過言じゃないかな。
余談ながら今作品はジョン・ナッシュの生涯をモチーフにしているが、彼の人生からは意図的に省略された要素がある。
例えばスキャンダルによって警察に逮捕された経験があり、20代で未婚の子をもうけてるだとか、2度結婚してますが、いずれも同じ女性(アリシア・ナッシュ)であったこと、そして、過去に何度か男性と女性と浮気をした(バイセクシャル)。
また、彼は精神疾患を通して地球外生命体と対話し、彼らと宇宙的につながることによって高度な知識を得たと考えていたそうで、この時期に多くの反ユダヤ的発言をしてるのも結構しられた話です。
その多くはユダヤ人を世界の共産主義と同一視するものであった。
何度かアメリカ国籍を放棄しようとし、アメリカが彼を追求していると考えていた。
こないな点を省略することで、ハワード監督は、観客がナッシュや彼の周囲の人々に共感できるように物語を展開し、ナッシュを同情的な人物に仕立て上げる。
ハワード監督はナッシュを、並外れた能力を持ち、それに見合うだけの業績と問題を持つ人物であり、非常にリアルで効果的な枠組みの中で表現しているのがスゴい。
ナッシュ役のラッセル・クロウは、彼が単なる有名人やムービースターではなく、最も純粋な意味での俳優であることを再び証明しています。
ある俳優の演技を見ていて、それが演技であることを完全に忘れることができる時、その作品が卓越したものであることを知ることができる。
今作品は、ナッシュの50年近い生涯を描いたものですが、クロウは、若い頃から老年期までをごく自然に、しかも微妙に表現しており、見ているうちに、ある男の一生を経験したことに突然気が付くまで、そのことを考えもしないほどです。
もちろん、優れたメイクアップの功績もあるけど、それ以上に、クロウがこの作品を巧みに演じきり、ナッシュをこれほどまでにリアルに、そして信頼できる存在にしていると云える。
また、数々の映画で優れた演技を見せてきた美しきジェニファー・コネリーが、アリシアを演じたことで、彼女も確りと評価を受けることになるはず。
物語の序盤、彼女はその自然で暗い美しさを効果的に演じているが、これは明らかに華やかな役柄ではなく、物語が進むにつれて、コネリーは自分のキャラの本当の姿と成り立ちをより深く表現していました。 
感情移入しやすい役柄やろけど、彼女は見事に演じきっている。
そして、クロウと同様、肉体的な面だけでなく、物腰や視点も成熟し、ごく自然にキャラを成長させてるのは脱帽の域でした。
また、脇役も充実してて、示唆に富み、感情を揺さぶる今作品は、最終的に、人間性豊かな美しい映画であり、見逃すことのできない旅となりました。



天才について徒然に。
数学者ジョン・ナッシュは天才と云われる一つに
ナッシュ均衡てのがある。
これは、全プレーヤーが
『他のプレーヤーの戦略を前提とした場合に、自分が最適な戦略をとっている』状態を云う。
今作品の主人公ジョン・ナッシュが提唱した。
ナッシュ均衡戦略を満たす戦略がプレーヤーたちによって選択された場合、どのプレーヤーも自分1人だけ別の戦略を選択しても、より低い利得しか得ることはできない状態になる。
それ故に、各プレーヤーはあえて違った戦略をとらずに、現状に留まろうとすることが多い。
これが『均衡』と表現される所以です。
ほかの戦略の組み合わせに比べて、ナッシュ均衡戦略は実際に選択される可能性が高く、絶対優位の戦略よりも頻繁に存在する。
そのため、ゲームにおいて各プレーヤーが選択する可能性を絞り込むのに都合が良い。
ただし、ナッシュ均衡戦略は1つのゲームに1個しか存在しないとは限らず、複数のナッシュ均衡戦略が存在することは珍しくない。
例えば、男女が出かける際のゲームとして、ロマンス映画と格闘技観戦のどちらを見に行くかを考える。
男性は格闘技を見る(+1)方が、映画を見に行く(+1)よりも好ましく、
女性は映画に行く(+1)方が、格闘技を見に行く(+1)よりも好ましいと考えている。
とは云え、お互い別のものを1人で見に行く(-1)ことはできるだけ避けたい。
ここではお互いどの戦略をとるか、絞り込むことができない。
そのため、自分だけ別の戦略をとろうとしても、より低い利得しか得られない状態になってしまう。
つまり、{格闘技、格闘技}と{映画、映画}という2つの戦略の組み合わせがナッシュ均衡の条件を満たしている。
こないなことを考えるのは将に天才としか云いようがない。
小生は間違いなく凡才以下と認めてます。
小生の発想することを皆に話すと嘲笑される。
例えば『ゾンビパンデミック到来説』を個人的に提唱してる、笑
それと共に、
『新人類が台頭し、旧人類が淘汰される説』
と云うのも同じく小さく訴えてる。
何も古代の話やなくて、近い未来に起こりうるモンだと考えてます。
この、新人類とは今作品の主人公ジョン・ナッシュのような天才のこと『ギブテッド』を持つ者たちです。
何も映画の中のスーパーヒーロー(メタヒューマン)のように怪力だったり、瞬間移動、はたまた、遠くのものを触れずに動かせる者達ではなく、先天的に顕著に高い知性や精神性、共感的理解、洞察力、独創性、優れた記憶力を持つ人々で、それ以外の人類は旧人類となるんやないかと思てます。
人類は、初期の猿人、猿人、原人、旧人、新人という5段階を経て進化してきたとされてる。
700万年ほど前に現れた初期の猿人は、半樹上性・半地上性であり、森林から平原の生活に適応していく過渡期にあり、ここから、人類は今ではチンパンジー等が分類される類人猿と別の道を歩き始めた云々があり今に到る。
ただ、忘れてならないのは、現在まで生き残っている人類は新人である我々ホモ・サピエンスだけ。
まぁ原人みたいなオッサンは、確かに存在するがそれでもあくまでも猿顔🐒のホモ・サピエンスである失礼。
人類は現生人類のホモ・サピエンスに至るまでどのような経緯でホモ・サピエンスだけが生き残り、その他の人類が絶滅していったかを説明する確たる証拠はなく猿人、原人、旧人と緩やかに進化してきた。
その過程で、ホモサピエンス以外は何らかの原因で淘汰されたいったのは事実。
その絶滅には長い月日を要したとは思います。
しかし、現在のホモ・サピエンスも時期については約20万年説とか10万年ほど説があるが、アフリカで誕生して、世界中に広がっていったが、20万年間この地上で進化少なく歩んできてる。
文明の発展のスピードを見ると、現代にきて目まぐるしい進化を遂げてる人類。
人類はこのまま行くはずもなく、劇的な変異により進化を進める可能性は大いにある。
生き物としては当然の摂理。
その進化した人類こそ、新人類となり、現・人類は旧人類とみなされる。
右をみても左をみても、そないな人はいないやんと云われたら、確かに中々いない。
円周率を何桁まで覚させるかがゆとり教育との関係で問題になったことがあるけど、また、少数点以下4桁を越して云える人は多くないし、また、100までの素数を同定することさえたいへん。
100,000までの素数の同定にいたっては、ほとんどの人は試みようと思ったことさえないとは思う。
しかし、ほとんど何の努力もしないで(少なくとも周囲にはそう見える)、誰に習ったわけでもなく、四則演算や素数の同定などをいとも簡単に瞬時になしとげてしまう
『電光石火の計算者(lightning calculator)』と云われとる数学的サバン症候群の人達が存在してる。
円周率の記憶もお手のものの人たちもいる。
こちとら、九九でさえも中々覚えれなかったのに。
今はギフテッド保持者はごく少数でも、何らかの原因で彼らのような人々が増えたなら、現・人類など及びもつかない集団となる。
ペンタゴンの暗号など絵本を読むように解くはずだし、彼らの知恵を使えばAIも今以上に目まぐるしく進化して行く。
そうなれば、現・人類は新人類の食料にも、奴隷にもならん役にはたたずは、ネアンデルタール人が消えていったように現・人類は淘汰され行く。
ネアンデルタールと人類の混血は存在したと云われてるし、しばらくは地上では存在しうるやろうけど、何らかのスペックを持ち合わせてない者は早くに行き場をなくすはず。
スペックと云っても、上司に胡麻を擂るような類いではなく、TOEIC何点なども違うかな。
天才達の集団に欠けてるなにかを補えるスペック。
それが何かを現・人類は模索していかなきゃならん時期にあんのかなぁと、まぁその前にゾンビパンデミックが起こったら、ゾンビが台頭するだけやろけど、どの道、現・人類ははたして生き残れんのかなぁ。。。いや、生き残って見せる。。。
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