松浦義英

人間蒸発の松浦義英のレビュー・感想・評価

人間蒸発(1967年製作の映画)
3.5
24.05.18:。

4.0よりの3.5。

メディア従事者からのロックオンvs一般人の心の動き。人格の使い分け。
嘘、真実、真実の嘘、嘘の真実、忘却、記憶、当事者の声が蔑ろにされ独り歩きする人間の言葉。
境界線はなんなのかどこなのか。
善なのか悪なのか。

自分に注目してくれる人が突然現れたら人間当然心は動いてしまうし、自らを程度の差は個人にあれど自他の境界線に基づいて自らを演出することはあるあるだなあと。
…大島の捜索と早川の演出、早川の心変わりと女優化、人の多面性。
そこを捉えたい制作陣と、ネズミとの攻防戦。

1時間超えてから急に色々と面白くなる。

猫の夢のシークエンスとイタコのシークエンスは構図がホラー。
この構図はまさにアートシアターギルド印。
でもイタコや祈祷師のシークエンスはフィクション臭が強すぎてな…もったいない気が。
当時の感覚なら違うのかもしれないけど。
でもイタコの「何でという訳もなかろうが、自分の物にならんからさ。
自分の物になったら大切にするさ、自分の物にならんから殺したのさ」
の人間の生物的思考と行動としての脆さとある種の強さですよね。
…イタコや祈祷師って現代の科学的視点から言うと疑問に思ってしまうところはあるけれど、
果たしてイタコや祈祷師は少しも信用できないのか?
現代でもカウンセラーや占い師の希望的観測が当たることは往々にしてあるわけで。
…と考えるとイタコのシークエンスはフィクションとは言い切れない。
だからこそそれまでの一時間の大島捜索パートが存在する気がして怖くなる。
(大島捜索パートも、無意味ではなくて
おとなしい大島しか知らない人もいれば、酒好き女好きの大島を知ってる人もいて、
元カノは今カノからすればアバズレにしか見えないらしく。
どこからか仕入れてきた妊娠の噂をぶつけて大島が置かされていたとでも言いたげな、性に奔放な裏の顔を暴こうとしていて…嫉妬してるだけにも見えたりして。
大島の実家では祈祷師を厳格に信じている身内がいて、平穏を乱す撮影隊を恨めしく思っていて。
…人間の業という面で見れば、なにも変わらないんだなという)

『ゆきゆきて、神軍』の原一男は奥崎謙三の存在を知ったのは今村昌平からだという。
故にモキュメンタリーな本作から
モキュメンタリーに見える(と観客に強く思わせ)ドキュメンタリーへ的確にアップデートさせた手腕は見事だ。
…本作は祈祷師が「山口県に大島はいる」。
イタコが「自分はもう死んだ」。
聞きこまれた人が「都内でこの間見ました」。
『ゆきゆきて、神軍』の奥崎と被る。

こういう映画は人間の強さが真面目に出ていて怖い。

撮影所解体からの多次元としての現実への移動は
映画作品としての区切りなのか。
現実としての区切りなのか。

路上対決はゲリラ的に見えるけれど、ちゃんと対決の構図を形成してて面白い。
他人の空似というのもあるだろうに姉本人の弁が全く信用されず受け入れられず。
(そこも計算ずくで戸惑った演技を姉がしているかもしれないという可能性)
姉が大島と肉体関係を結んだ決定的な証拠もないのに、証拠になり得ないレベルの状況証拠だけをかき集めて「これだけ他人が言ってるんだから…!」と力技でねじ伏せにかかる。
机を囲んで話し合う場面も、姉が不潔と言い切る割に、姉の家に寝泊まりし、大島を連れて来る…妹の歪な感じ。
まさにキャットファイトだった。

そこに急に登場する「あなたは神を信じますか?」という男の異質性。
まさにカオス。だが、神にもすがりたい真実の追求という側面。

『映画は終わった…しかし現実は終わらない』。
このラストは多元的すぎてめまいがする。
大島の捜索は続くのか、映画の解体場面で大島の存在そのものが蒸発し終わったのか、映画として区切られるのみなのか。
庵野秀明やクリストファーノーランが頑張ってるけど、これは超えられないでしょう。
松浦義英

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