古川智教

ニーチェの馬の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

ニーチェの馬(2011年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

映画において馬の形象はどのような意味を持っているのか。またはその意味からの逸脱をも果たすとして、なぜ幾度も沈黙を守ったまま、あるときは俊敏に、またあるときはじっと動くことなくその場に留まって、フレーム内に登場するのか。少なくともトリノでの発狂する前のニーチェにおいて、馬とは生そのものとしての抵抗であったのだ。ニーチェは鞭打たれる馬に同情したのでも、憐れみを抱いたのでもなかった。ニーチェが泣きながら抱きしめたのはそうした虐げられるものへの同情や憐れみではなく、たとえ同情や憐れみを通過するものであるとしても、その先にある生そのものとしての抵抗である。ニーチェが発狂したのはあまりにも抵抗への親和が限界を突破したからだとでも言えそうだ。では、そのニーチェが抱きしめた馬の行方を追った映画は、馬の生そのものとしての抵抗をどのように捉えようとしているのだろうか。まず、終末へと至る嵐が始まった次の日、馬は御者の男に手綱で背中を叩かれても、歩き出そうともせず、御者に出発を諦めさせる。続いて干し草を食べることを拒絶し、水さえも飲まなくなる。御者に抵抗しているだけではない。馬が抵抗しているのは終末の只中に放り置かれた生命のなすすべなさに対してであり、生きることの拒絶を生への忌避とすることなく、生そのものの抵抗にまで高めることなのだ。そして、御者の男もまた御者ではなく、家の中では馬であることが明るみに出る。御者の男が着替えを自分ですることができずに娘にさせるのは、右腕が不自由であるからでも、家父長制での権威を振りかざしたいからでもない。御者の男みずからが馬と化しているのだ。まるで鞍と手綱をつけられる馬そっくりではないか。この場合、もちろん御者は娘である。続いて今度は娘の方が馬になるための出来事が到来する。それは不穏な終末の嵐が井戸の水を枯らしてしまい、荒野の家にはいられなくなった父と娘が家財道具一式を荷車に積んで出発しようとするときに荷車を馬に引かせるのではなく、娘が引くことになるシーンに表れている。このとき奇妙なことに馬は御者の位置にいる。しかし、父と娘と馬が荒野の丘を越えたところで、無謀な試みだと気づいたからか、すぐに家に戻ってくるのはどうしたわけか。この理由も明快である。食事と水を拒否するようになった馬に厩で娘は、「お前はどこにもいかない」と語りかけていたではないか。つまり、生そのものとしての抵抗である馬が、「どこにもいかない」のであれば、当然馬になった父と娘も「どこへもいかない」ようにならなければならないのだ。そして、終末に至る嵐が最後に太陽を覆い隠してしまい、全き闇が訪れる。父と娘はランプの火さえ灯すこともできなくなり、闇の中で幾度も反復されてきたじゃがいもを食べようとする。ここで注目すべきは、父は茹でられていないじゃがいもを「食べなければならない」と言って食べるのに対して、娘は馬と同様食べるのを拒否するシーンである。二種類の抵抗が示されている。一方は終末が訪れようとしているのに食べて生きようとすることで生に対し、生そのもので抵抗しようとし、もう一方は食べることを拒否し、生き延びようとするのをやめることで生そのものが抵抗と化すように仕向けているのだ。生の対自による抵抗と生の即自による抵抗。馬はこのどちらの姿を取るにせよ、映画においては抵抗の形象であったのだ。
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