レインウォッチャー

数に溺れてのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

数に溺れて(1988年製作の映画)
4.5
劇場的に照らされた屋敷の前で、マルガリータ王女の来世風な少女が縄跳びをしながら呼び名のついた星を数えている…

こんな開幕を食らってしまったが最後、脳が開花する蕾のタイムラプスの如くほどけて涎を垂らし始める。ああこれです、これが「映画を観る」ってことなのだわ。

『ZOO』に続いて確信したのだけれど、P・グリーナウェイという人はやはり《秩序》に囚われた人だ。ルールや法則、更には運命と言い換えても良いかもしれない。何にせよ、偏執的な秩序に縛られた世界を描き、それが混沌としてくることによって、同時に秩序への反逆にもなっている。
しかし考えてみれば映画とは視覚や聴覚や時間感覚のコントロール(統制、誘導)によって成り立つものだから、実は彼のアプローチこそめちゃくちゃ「純映画的」だと言えはしないだろうか。

ともあれ、今作を強力に支配するのはタイトルの通り《数》。

物語は、三世代に渡って同じ「シシー・コルピッツ」という名前をもつ女たちが、各々の夫を溺死させていく話だ。3人の女が、3人の男を、必ず3まで数を数えながら殺す。
この安定(バランス)の象徴=3によって支えられたどこか神話的なループは、殺人の隠蔽を手伝わされる検視官マジェット(B・ヒル)の存在によってブラックコメディ的な趣を保ちつつ、逃れ得ない結末へ向かって進んで行く。

そして、冒頭の縄跳び少女が「100まで数えたらあとは同じ」なんて預言を口にしてから、実際に画面の中にはどこかしらに(ボールやユニフォームに書かれた番号、車のナンバープレート、読み上げられる聖書の章番号etc,etc...)数字が表れて、ラストシーンの100までカウントアップされる(※1)。
そんなユーモラスともいえる仕掛けを楽しんだりもしながら、観るものは登場人物たちと同じく《数》に包囲されていくような感覚を味わい、迷い込んでいく。

劇中には、他にも《秩序》を強調する要素がいくつも見られる。たとえば『ZOO』(※2)から引き継がれる画面の病的なシンメトリー(対称性)、マジェットやその息子スマットが興じる数々の複雑なゲームのルール。

そんな構造によって美しく縛られた世界で、3人のシシーは、まるで「そうあらねばならない」かのように男たちを殺す。
それは、劇中で『サムソンとデリラ』の逸話が引き合いに出されることによって、遥か昔から連綿と続いてきた業であるかのような印象を残す。そしてエデンの園(やはり『ZOO』から引き継がれる今作序盤の林檎)から始まった男女のゲームは、女のほうに《一手》カードが多く渡されているんじゃあないだろうか。それがルール、それが真に公平な秩序。

その一手…つまり性愛をニンジンとしてシシーたちに体よく利用されるマジェットは、最後にはその運命に逆らってみせようとするのだけれど、やはり釈迦の掌から逃れることができない(※3)。
シシーたちは強かな悪女だと評する人もいるかもしれない、しかし実は計略智略を越えてさも「だってこれが当然だもん」「わるくないもん」「ね~」と思ってそう(ていうかマジでそう思っている)なところに、ルールブックに則った本能があるのでは?男は今も昔もずーっと最後の一瞬までこれに気付けなくて、ゲームに敗け続けてる(※4)んだよなあ。カマキリを見て笑ってるくせに。

斯くして数字は100まで数え終わり、0へ戻る。明日もまた、同じ《秩序》のゲームが始まる。
しかし、わたしは何も悲観したり負け惜しみを言いたいわけではない。ゲームは配られた札で楽しんでナンボだからだ。スマット少年が幾度となく捧げた花火のように。

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※1:がんばって観ていたつもりだったけれど、いくつか見つけられなかった数字がある。悔しいので必ずまた観たい。

※2:『ZOO』でも、アルファベット26文字から始まる動物を映画を通して読み上げていたりもしていた。ここにも、順番というひとつの秩序を見つけることができる。

※3:このラスト、『ボーはおそれている』のアレやん!!!!(アリ・アスターさんはグリーナウェイ大好きマンとのこと)

※4:時に腕力や権力などを行使して試合に勝った(やり込めた、貶めた)風に見せることはあっても、そもそもその腕力や権力は女権をコントロールするために作られたものともいえるので、結局勝負には勝っていないのである。

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『ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師』にて。
https://greenaway-retrospective.com