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エクソシスト/ディレクターズ・カット版のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

 午前十時の映画祭にて。劇場で見ると凍てつく。「宇宙で死ぬわ」と言って失禁するリーガンを見て気まずくなる来客陣とスクリーンの外でこちら観客席も同様に居心地が悪くなる。久しぶりに見ると、こんなにじっとりと焦ったく進む内容だったんだと気付いた。

 悪魔のサブリミナル、計5回ぐらいあった。思えば「ファイト・クラブ」のあれって別人格の発露といい割と今作からの影響多いのでは。劇場で見ると明らかにそのカットを「見てしまった」というショックが劇場を包むのがわかる。若干席での身動ぎや動揺が感じられるのだ。打って変わって撮影現場、監督による”銃声”の指導の多発でピリピリしてたそうだ。事前にこれらの撮影裏を知りつつ見たので、電話の呼び鈴のビクつきも理解できる(誰が電話音の代わりに発砲すんだよ…)。ここで悪魔のサブリミナルと銃の発砲は、どちらもその場を凍て付かせる効能ということで類似している。とにかく神経質になるというのを、現場に、そして観客席にお届けしたかったのだろう。エレン・バースティンは今作ドキュメンタリーで「皆が映画を作るに必要だと思ってることを超えてる」と怒りを、笑いを交えつつも吐露していた。

 空気感を作るというのはすごい徹底しているようで、ゴミゴミした町や部屋の中の装飾の雑多な感じとかがすごい。フリードキン、調べたらドキュメンタリー出らしく、そのせいか自然さ、本物さに異様に拘っていたように見える。その雑多さに揉まれ、カラス神父は自身の信仰に疑念を抱く。

 それら本物に対する偽物の存在が今作にはある。例えば映画撮影シーンでの学生運動だ。同時期のアメリカン・ニューシネマ勢力の中、反体制であることが作られた映像でしかない今作。現実はもっとゴミゴミして絶望に満ちている。フリードキン自身はニューシネマ的だと思うが(今作の後味の良くなさがそうだし)、映画が描く世界が現実と乖離していくことに危機感を持っていたのではないかと思う。クリスが脚本に疑問を呈すと監督は「脚本家に聞いてくれ」とひと蹴りする始末だった。また警部が勧めたグルーチョ・マルクスが出てる「オセロ」なんて無くて、これまた偽物である。また、カラス神父が乗ろうとする電車が画面にぐんぐん近づき、青く怪しい閃光をバチバチ走らせるのも、構図はリュミエールの「ラ・シオタ駅への列車の到着」に近いし、そこに悪魔的なイメージをダブらせることで映画の始祖を悪魔の到来と結びつけている。今作はそんなアンチ映画な態度が漂っているように思えるのだ。

 その後、ホームレスを無視するカラス神父と、のちにその神父に「自分が偽物のように思えて…」という別の神父という構図の欺瞞もある。カラス神父はある意味悪魔という本命に出会うことで自身の信仰を取り戻したと言えるのではないだろうか。しかしここが複雑で、悪魔の付け入る隙を持つことと神父であることは矛盾している(その他精神科であり宗教家、聖職者だがボクサーというかなり異端な立ち位置であった)、だからこそ悪魔を宿したままの自死しか方法が無かったのだ。首飾りの効力が無ければあっというまだったのだ(ちなみにリーガンは母の不貞を疑う心が悪魔の付け入る隙になったんだと思う)。

 カラス神父の疲れたビジュが良いのだが、完全に「ロッキー」インスピレーションだろと思ったらロッキーの方が後で驚き笑。ロッキーの先駆け。「シャイニング」でのペンデレツキの楽曲の恐怖を煽ることへの有用性も、キューブリックが先だと思ったら今作の方が先にペンデレツキ使ってた(キューブリックは今作の監督をしたかったそうだが却下されたみたい)。アルジェントの「サスペリア」でプログレバンド、ゴブリンの楽曲使用よりも先に、マイク・オールドフィールドというプログレサウンドの映画への取り込みをしていた。今作がその後のエクソシスト系列を生んだり、数多の影響力を秘めたホラーの金字塔であることに改めて気付かされた。

 点でバラバラが、少しずつ結びついていく物語は見てて楽しい。逆に早く繋がらないもどかしさもあったり。悪魔がいるなら、彼らを巡り会わせたまた別の運命的な力もあることを今作は、若干の希望を持って証明していると言えそうだ。だからこそキンダーマン警部とジョー神父という劇中接点が無かった者同士が、同じ出来事を目撃したことにより絆を深めるという話に落ち着くのだろう。2,3はこの二人が関連してるそうだし、観て見たい!
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