河

ハズバンズの河のレビュー・感想・評価

ハズバンズ(1970年製作の映画)
4.0
アメリカ人であり家庭もあり高給な仕事についている3人の白人中年男性、ガス、ハリー、アーチーが親友の葬式からそのまま家庭も仕事も放り出して過ごすバカンスのような3日間半の話。3人は3日目のロンドンに着いてホテルのトイレで仮眠するまで、2日以上寝ずに遊んで飲み続ける。副題は人生、死そして自由に関するコメディ。

中心にあるのは気づいたら失っていた若さ、家庭と仕事含めた今の日々にある決定的に何かが欠けているような感覚、若さを失った代わりに何も得ていないような感覚であり、それがアーチーの言う、言いたくてたまらないし重要なことなのにそれが何かわからない感覚、自分の感じていることがわからない感覚となっている。

3人とも映画の中では感情の赴くままに行動し喋るが、家庭ではそうではないことが言及される。3人だけで寝ずに過ごした最初の2日間で、家庭で抑圧してきたものが段々と表面化し発散されていくようになる。3日目の朝帰りにおいてもそれが抜けない。それがアーチーが「妻には従わない、髭も剃らないしシャワーも浴びない、個性を持ち自由であるべき」というセリフを発することに象徴されるように感じる。そして、そのまま家庭に帰ったハリーは妻と暴力沙汰になる。

ガスがナンパしたイギリス人に指摘されるように、主人公たちは最初は互いに表面的なコミュニケーションをとっていたように見える。そして、それは無遠慮で子供じみたコミュニケーションである。男3人の間におけるその表面的さはその感情の発散と共に崩れていき、それがハリーとアーチーの間の緊張感、ハリーを仲間はずれにしたようなアーチーとガスの結びつきに繋がっていく。4人でいた時に保たれていた関係性が1人抜けてバランスが変わったことがその関係性の変化のきっかけとなる。

カジノでナンパした女性に対してはそれぞれ表面的なコミュニケーションをとろうとする。しかし、3人とも感情を発散し続けてきたからか、その表面的だったはずのものがその発散と混ざりあって、明らかに何かがおかしいような状態、ガスの言う病気のような状態でコミュニケーションをとるようになる。この3者3様の感情の狂い方が表れたセックス前の長いシークエンスが良い。

アーチーとガスはロンドンに居続けるとこのまま家庭を捨てるようになってしまうことに気づき、帰ることを決める。ハリーはそのまま居続ける。ロンドンに来た理由は妻と暴力沙汰を起こしたハリーに連れ添ってハリーを家庭に帰すためだったが、結局ハリーをおいて帰る。

アーチーの言っていたわからなくなった自分の感じていることがわかるようになったのかは明示されないままだが、それがわからないまま3日間発散され続けていたように感じる。そして、アーチーとハリーはまたそれを抑圧し家庭と仕事へと戻っていって終わる。

生の中年男性が戯画化されずに焼き付けられたような映画。冒頭からしばらくは気が抜けてるけどどこかかっこいいような感覚があったが、映画が進むに従って段々と生身の混沌さ、間抜けさや切実さが前面化してくる。同時に、映画の主導権を主人公たちの感情が握るようになっていくように感じる。それによって、感情が予測できるものではないからこそ、展開が縦横無尽にドライブしていくようになる。

濱口監督が影響を受けた監督らしいが、それは『フェイシズ』とも共通する表面的、機械的な振る舞いとその奥にある感情というテーマ、そしてその表面的な振る舞いに対して段々と抑圧していたはずの生身の感情が表面化しそれが展開にも作用してくるところにあるんだろうなと思う。特に『PASSION』とは根本的にはほとんど同じ映画だと思う。

3日間の話だけど、時間がほとんど途切れないのと睡眠によるリセットが効いていないことによって、見た後の感覚は『アメリカン・グラフィティ』のような一晩ものの映画と近い。気の抜けたかっこよさがジム・ジャームッシュやタランティーノに繋がっていって、この生の姿をドキュメントする感覚はジョナス・メカスなどに繋がっていくんだろうと思うけど、一晩ものの映画って意味でも最初の人なんじゃないかと思う。
河