明石です

TATTOO「刺青」ありの明石ですのレビュー・感想・評価

TATTOO「刺青」あり(1982年製作の映画)
5.0
「男は三十までにデカいことをやらなあかん。お袋がよう言うとったんや」

15歳で人を殺し、少年院を出てミナミでキャバクラを経営していた男が、借金に追われ妻にも逃げられ、破滅へ突き進んでいくさまを描いた、実在の殺人犯の伝奇映画。監督は、ロマンポルノ映画でデビューし、後年には、あさま山荘事件を映像化した『光の雨』を撮ることになる高橋伴明。なんたるセンスある作品、というのが第一の感想で、冒頭からラストに至るまで、私はこういうのが観たくて映画を観てるんだよなあと、むせ返るようなカタルシスに歓喜しながら観た。

物語のモデルになっているのは、70年代に大坂で起きた三菱銀行人質事件。リアル「ソドムの市」と名高い凄惨な一件で、人質にとった四人の行員をたてつづけにあの世へ送り、虫の息になった行員の耳を別の行員に削がせ、女性を全裸にして「肉の壁」を作らせる。そうした常人なら聞くだけで吐き気を催しかねない猟奇的な細部はあえて描かず、犯人の人生(のみ)にスポットを当てるという、ある意味では超意欲作でした。

主演の宇崎竜童本人が演奏するロックミュージックをバックに、担架に乗せ運ばれる主人公の遺体。真っ白な毛布の上には、(ジャケットにも写っている)グレーのハットがちょこんと乗っかってる。冒頭のカットからかっこ良すぎて痺れた。直後、「息子さんがとんでもないことをやらかしおったんです!」と、派出所職員が大慌てで犯人の母親を訪ね、立て籠っている「息子」の説得に当たらせようとする。からの、犯人の少年時代の回想へ。この事件の犯人が何をした人間かを知っている人も、知らない人も皆ワクワクさせる素晴らしい導入、、しかも、主人公の遺骨が母親の手で運ばれ、故郷に帰るエンディングでは、主人公を演じた宇崎竜童自身の曲が流れるという粋なはからい。

血生臭い事件を趣味で収集している猟奇ファンの私としては、実在の事件については聞き知っていたものの、本作についての前知識はほぼ皆無の状態で鑑賞したので、待てど暮らせど始まらない殺戮シーンに、例のあれはいつ始まるの?とつい訝ってしまった笑。残り30分を切ったあたりでようやく察しました。犯人の素顔に迫る人間ドラマだったのかと。ラストで主人公が銃を手に銀行に押し入ったところで画面は静止画にかわり、「あとは歴史の知る通り」なエンディング。この事件に関して、まず間違いなく最も衆人の耳目を引くであろう事件そのものの描写を華麗にスルーする姿勢に、もはや作り手の美学を感じる。そういえば、この監督は後年の『光の雨』でも同じ形式を採用していたなあと思い出す。当時を生きた人なら誰もが知る事件に対して、映画で描きたいのはそこじゃないんだよね、という潔い姿勢。これが芸術か、と感嘆いたした(そいえば高橋監督、今は京都の芸大の映画学科で学部長をされてるみたいですね)。銀行襲撃直前の主人公が、恋人に向かって「ほなな。親孝行しいや」と言い残し去っていく後ろ姿も最高にクールでした。

難点はやはり、作品が扱っている題材について前知識なしに見たら、誰についてのなんの話なのかさっぱりわからないこと。逆に言えば、前知識ありで見れば、本作が何についてどういう視点で扱っているのかが驚くほど隅々までかわかる。映画が公開されたのは事件の3年後なので、当時日本中どころか世界を震撼せしめた事件についてあまり触れないのは、当時の観点で見ればとくに不思議なことではないのかもしれない。強盗に入って以降の残虐な細部がまるまるカットされてるため、驚くほど綺麗な話にまとまってるけど、本当はこんなに綺麗ではない笑。でも、残虐な事件に際し、その残虐性ばかりが声高に言い立てられる世の中にあっては、こういう綺麗な物語も、真実のひとつの側面として必要(というか必要悪)だよなと私は思う。

「親孝行して、女に優しうするんが男の務めや」と信じる男が、なぜこれほどの凶行に手を染められたのか、の答え(もちろん答えがあると仮定しての話だけど)の一端くらいは掴めた気がする。そういえば、人間の遺伝子的には、親が子供に愛情を持つのは自然な一方、子供が親に愛情を持つのは、まったく理にかなってないというのを、以前、進化心理学か何かの本で読んだことがある。実際、こんなかぎりなくサイコパスに近い男が、これほど純粋な愛情を母親を向けられるというのは、人間の神秘だよなあとしみじみ思う。

何かしらセンセーショナルな事件が起こった時、真っ先に飛びつくのはマスコミをはじめとする「メディア」で、あとを追うのが「芸術」と言われている。凄惨な事件を起こした殺人犯ときくと、私たちは、メディアがクロースアップするその表の顔から、ともすれば短絡的なイメージ(幼少期からたえず蛮行を働いてきた心を持たないサイコパス等々)を抱きがちなもの。そこへきて、こうも人間臭い側面をびしっと描かれると、見方も変わる。同じく昭和の時代の連続殺人がモチーフの『復讐するは我にあり』は、全編観た上でもなんら同情も共感も抱かなかった覚えがある。それはもちろん、映画自体の評価とはまったく関係がない。私なんかが共感できない傑作なんて山ほどある。でも、そうした描き方は、殺人鬼が、まるで殺人鬼になるために生まれてきたかのような錯覚を抱かせかねない。メディアはその最たるもの(もちろん映画とメディアはまったくの別物で、一人の人間の生涯について常に後出しじゃんけんをするようなメディアの描き方は卑怯とさえ思う。それに近いことをやる映画が私の知るかぎりでは少なくないということ)。殺人鬼は殺人鬼である前に一人の人間で、ごく当たり前のように誰かを愛し、愛された過去がある。そういう当たり前の事実を思い出させてくれる作品が私は大好きです。

本当、このレベルの傑作にはなかなか出会えないよなと思わせられる大傑作でした。

—好きた台詞
「お前は男をあかんようにする女や」
「あかんようにされる男があかんのや」
明石です

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