タケオ

ミディアンのタケオのレビュー・感想・評価

ミディアン(1990年製作の映画)
4.4
 本作の主人公ブーン(クレイグ・シェイファー)は、闇の種族(Nightbreed)が住むと言われる死都'ミディアン'へ迷い込む悪夢に毎晩悩まされている。ブーンはそのことを精神科医のデッカー(デヴィッド・クロネンバーグ)に相談していたが、実はデッカーの正体は巷を騒がせる連続殺人鬼で、自らが犯した全ての罪をブーンに被せようと画策していた。精神病院の患者から死都'ミディアン'が実在すると聞かされたブーンは単身ミディアンへと旅立つが、それを知ったデッカーは更なる策略を張り巡らせていく——。
 『ヘル・レイザー』(87年)などの作品で知られる「ホラー映画界の貴公子」ことクライヴ・パーカーが、自ら執筆したホラー小説『死都伝説』(88年)を映画化したのが本作『ミディアン』(90年)だ。『ミディアン』の魅力は多岐にわたるが、死都'ミディアン'に棲む異形のものたちのバリエーションに富んだビジュアルを見ているだけでも十分に楽しい。身体中に棘の生えた女や、腹部に顔のある肥満体型の男、悪魔のような姿をした生き物から全身ドロドロとしたなんとも形容し難い物体まで、死都'ミディアン'にはありとあらゆるものたちが棲んでいる。それは同時に、死都'ミディアン'が差別のない多様性に満ちた都市であることを意味している。「人とは違う」というただそれだけの理由で、死都'ミディアン'に棲む異形のものたちは人間たちから追害されてきた。物語中盤で、死都'ミディアン'に棲む異形のものたちが人間たちに追害されてきた過去の様子が描かれるが、その場面は明らかにキリスト教による魔女狩りを意識したものとなっている。また、クライマックスでデッカーとともにミディアンに攻め込んでくる警官隊たちの姿が、明らかにナチス・ドイツを彷彿させるものとなっているのも重要だ。死都'ミディアン'は、「異端者」というレッテルを貼られ追害された者たちに残された最後のシェルターなのである。
 長きに渡り追害されてきた死都'ミディアン'に棲む異形のものたちは、人間を恐れて滅多に姿を見せることはない。しかし、それでもデッカーや警官隊たちは死都'ミディアン'を襲撃しようとする。何故ならデッカーたちにとって死都'ミディアン'に棲む異形のものたちは、自分たちのような清き「人間」とは異なる醜き「怪物」だからだ。「自分たち」と「アイツら」といった形で雑に種族をカテゴライズするものの考え方は、悲しいことに今なお社会に根深く残っている。そのような分かりやすい(愚かな)考え方は、「自分たち」が所属する体制を批評することなく気に入らない「アイツら」を好き放題に追害できるため、「自分たち」こそが絶対的に「正しい」立場だと信じてやまない人間たちには重宝されるのだ。もっとも、そのような考え方が如何に愚かで醜く残忍なものであるかは、魔女狩りやホロコーストといった形で既に歴史が証明しているわけだが。
 だからこそ、ブーンと共に死都'ミディアン'に棲む異形のものたちが遂に立ち上がるクライマックスには、虐げられし者たちが牙を剥く興奮とカタルシスが宿っている。魔女狩りやホロコーストによって追害されし者たちの怒りや怨念を代弁するかのように、死都'ミディアン'に棲む異形のものたちがあらゆる手段で攻勢に出る様は、何度鑑賞しても圧巻だ。残忍かつ冷酷なマジョリティに属するぐらいなら、誇り高きマイノリティとして生きた方が遥かにマシだと『ミディアン』は力強く叫ぶ。その叫びは、自らとは異なる価値観や存在を「怪物」呼ばわりするような愚劣極まりない思想とは対極にある、どこまでも清く美しき「真の個人」としての在り方の表明でもあるのだ。
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