河

ルイジアナ物語の河のレビュー・感想・評価

ルイジアナ物語(1948年製作の映画)
3.8
狩りをすることが責任として課される者を大人として『モアナ』『カラナグ』では自然と共生する生活が失われていくことを少年期から大人への成長と重ね合わせて描き、『極北のナヌーク』『アラン』では大人達が狩人として自然と戦いつつも飲み込まれていく様を描く、そしてより高い視点ではその両者ともに近代以前の営みとして過去になっていくなど、失われていくものをある種ロマン主義的に描いてきた監督だと思っている。
この映画でも自然と共生しつつも銃を無邪気に撃っていた子供はワニと対峙し克服することによって銃を渡され大人になる。それと並行して、大人達が採掘工事を通して地面という自然と戦う姿が描かれる。少年が撃った銃の爆発が油田の存在を示すガスの噴出と被せられ、2つあるクライマックスが克服される対象としてのワニと困難な地盤による事故となっているなど、その2つの物語が連動しながら並行に語られる。
これまでの映画では狩りがその現地の人々が使ってきた道具によって行われていたのに対して、この映画では近代的なもの、銃と機械によって行われる。そしてそれによってか、これまでの映画とは対比的に少年は大人になってからも自然との共生が明確に描かれ(『カラナグ』では少年が大人になって以降象が狩りの道具でしかなくなる)、大人達は自然に打ち勝つ。自然と人間・機械、近代以前と近代がユートピア的に融和して終わる。
撮られた自然の美しさ、それを乗り越えるものとしての採掘用の機械とその作業の力強さや説得力の凄まじさもあり、キャリア終盤でのこの映像でこの帰結だと思うとある種感動的ではある一方で、今見ると非常に楽天的な映画だと思ってしまう。

以下の記事でこの映画ではこれまでの映画にあった過去へのロマンティシズムに加えて未来へのロマンティシズムが存在すると書かれていて腑に落ちた。これまで現地の人々が自然に立ち向かう姿に向けられていた視線が石油採掘の作業員達に向けられている、近代以前に向けられていた視点が近代以降にまで向けられているような感覚。また、ここで描かれているのはケイジャンと呼ばれる人々で、この映画は当時ルイジアナにはケージャンだけでなくインディアン含めた先住の人々も混合して暮らしていたことを無視していることとかも書かれている。
https://southernspaces.org/2010/revisiting-flahertys-louisiana-story/

映像としては遅れてきた近代讃歌としてヨリス・イヴェンスの『橋』『雨』、ヴァルター・ルットマンの『伯林』など city-symphony として括られる映画と並べられる作品だと感じる。ただ、英語wikiで同じ括りに入れられているこの監督の『twenty four dollar island』のここまで来れたではなくここまで来てしまった感、人を圧倒する自然としての巨大な異物が育ってしまったような黙示録的な感覚の方が個人的に好きだなと思う。
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